暗さに目が慣れてきた。
(そういえば、頼んでしてもらうのって初めてだな)
それに快く応じて、喜々としてくわえてくれる志乃。
(うんうん。僕は幸せ者だなぁ)
そこがぬるりと温かく包まれる。
(今日は堪能したいな)
「志乃」
「ふ?」
彼女はくわえたまま上目遣いに僕を見る。
(電気消してるから油断してるな)
「顔見えてるよ」とは言わないでおこう。
「ゆっくりして」
「んむ?」
少し不思議そうだ。
「すぐ出したくない」
「ん」
納得したようだった。
志乃は口を離して、舐め上げるところからやり直すことにしたらしい。
空いた手で太股をさすられるのがくすぐったい。
志乃が側面に舌を這わせると、先っぽが彼女の頬に触れて汚した。
薄暗い視界の中で、カーテンの隙間から入った灯りでそこだけなめくじが這ったようにぬらりと光った。
彼女はそれに構わないようだ。
ぞくぞくした。
(うーん、なんて恐ろしい子)
やがて、志乃から例の花の香りが漂い始めた。
(この匂い、久しぶりだな)
先を浅く唇で挟まれる。
(さすがに数日断ったら腹も減るよな)
そのまま舌先でなぶられる。
声が出そうになったけど、奥歯を噛んで堪えた。
僕が大きく息を吐くと、志乃はそのままにやりと笑った。
(こいつ、ツボを心得てやがる……ッ!)
彼女は深く口に含むと、手も使い始めた。
(完全に出させにかかってるな)
一気に容赦しなくなった。
(もうちょっと堪能させてよばかあああああああ)
僕はあっけなく射精に至らされた。
志乃は相変わらず美味そうに喉を鳴らして飲んでいる。
(だから出てる間に吸っちゃらめえええええええ)
指で輪を作って、根本からゆっくり絞り出している。
彼女が口を離すと、ぽっ、と湿った音がした。
「ゆっくりしてって言ったのにぃ……」
僕は布団をかぶって、わざとそっぽを向く。
「あー、うー……お腹すいたん……」
志乃に向き直る。
少しばつが悪そうに、もじもじしていた。
ちょっとおもしろかった。
「美味かったか」
「ごちそうさまでした」
彼女は頬の横で手を合わせた。
志乃が布団に潜り込んでくる。
下の方でごそごそしている。
下着をはき直しているらしかった。
「春海はさ」
「ん?」
「……その、したいって思う?」
「志乃は?」
「質問を質問で返すなー」
彼女は掛け布団を巻き取りながらごろごろと畳の上に転がり出ていった。
「戻ってこーい」
「やだー」
「かえってきてー」
「私が恥を忍んで聞いたんだぞ。答えてもらうまでは帰らないぞ」
彼女は簀巻き状態で抗議する。
これは新しいスタイルのストだな。
「したーい。超したーい」
「だめー、心がこもってなーい」
「真面目にしたいと思ってるから戻ってきてくれー」
「しょーがないニャーン」
ごろごろごろ。
「で、そういうお前はどうなんよ」
布団を直しながら聞く。
「あ、あたし?あたしは……」
志乃は布団をかぶる。
「……したい、ですけど――」
布団の中からくぐもって聞こえる。
志乃が顔だけ出す。
「でも、やっぱりちょと怖い」
「わからんでもない」
彼女が達する直前、指一本でもぎゅうぎゅう締め付けてきたのを思い出す。
自分のモノの直径はどれくらいだったか。
「考えてみてほしい。自分の尻に棒が入ったらどうだろう、と」
「ケツを比較対象に引っ張るなよ」
「穴は穴ですし」
「穴だけど伸縮性とか用途が違うだろ」
「でもそっちに使う人もいるんでしょ」
(お前は何を調べたんだ……)
エロいことに興味を持ってくれるのはいいが、そっちの世界に興味はないんだ。
(いかんなー、ムードがどんどん破壊されていくなー)
彼女の関心をケツから反らさないといけない。
僕に同性愛を嫌悪する気持ちはないが、そっちのケはない。
ましてや開発される気もない。
僕は志乃の胸を掴んだ。
「うわあぁあ」
「もちょっと可愛く驚けよ」
「いやあぁあん」
「リテイクはいいから」
少しあきれる。
「もっと慣れたらしような」
「じゃあ貴様、もっとエロいことをするつもりだな! えっち!」
「しなきゃ慣れないだろうが」
(少なくともそんな反応のうちはできそうにないな……)
「う」
「いやなら一人でしたまえ」
彼女はまた、よくわからないうめき声を出して布団にもぐってしまった。
先は長そうだ。
「恥ずかしいのはお互い様なんだから、いちいち逃げてたらできないよ」
「ごめんちゃい」
「俺は志乃がエロくてもがっかりしたり馬鹿にしたりしないだろ」
「うん」
「もっと信用していただきたい」
「うん」
志乃は急にしおらしくなって、僕に口づけると
「ごめんね」
と詫びた。
僕が志乃の頭を撫でると、彼女は身を寄せてきた。
そのまま体をまさぐってみると、小さく声を上げた。
僕は眠くなるまでそうしていた。
―――――日曜の朝・ナオミの部屋―――――
お義姉さんはいつの間にか帰ってきていたらしい。
「おはよう。よく眠れたようね」
「おはようございます。おかえりなさい」
どっちを言ったらいいのかわからなかったので、両方言った。
志乃はまだ眠っている。
昨日の疲れのせいかもしれない。
僕だって自室で寝てたら昼まで寝ていそうだ。
「妹は寝てるのね。ちょうどいいわ」
彼女は僕を事務所に呼んだ。
僕を来客用のソファに座らせると、お義姉さんは神妙な顔で切り出した。
「あの子が起きてこないうちに話を済ませましょう」
僕は半分寝ている頭をたたき起こそうと息を止めた。
「あなた、あのとき見えてたでしょ」
「あのときって――」
「始めに依頼人の部屋に行ったとき、それから、術者の女の部屋に行ったとき」
「ああ、なんか黒いのがわさわさうごうご……」
「あのときはあなた達の安全を確保するのに気をとられてたから聞かなかったんだけど」
「はぁ」
「それに、気のせいだと思ってた」
「…………」
「君、何者なの?」
「は?」
「いや、ちょっと話の筋がわかりません」
「私があの子を車に残したのは、呪いを見せたくなかったからよ」
「それは、そうでしょうね」
不快な虫の形をした影を、ゲル状の黒いナメクジのようなものを思い出す。
「君、依頼人の部屋を見て、こう言ったのよ」
――なんだよ、これ――
「言った……ような気がします」
あのときは混乱していたからはっきりとは思い出せない。
でも、それくらい言っててもおかしくない。
「どうして見えるの?」
「どうしてって、俺にもわかりませんよ」
むしろ、見えるものだと思っていた。
「君、実は妖怪?」
「えー、俺は人間ですよ」
「おかしいわね……」
「俺だってわけがわかりません。こういうもんだと思ってましたから」
「昔からってわけじゃないのね」
「ええ。呪いを見たのは昨日が初めてです」
「何なのかしらねぇ……」
お義姉さんは考えこんでしまった。
僕だってわけがわからない。
「あの、見えると何かまずいんですか?」
「まずいっていうか、心を病みやすくはなるわね。
ほら、俗にいうみえる人って、不健康そうじゃない?」
「俺、このままだとどうなるんですか」
「どうもしないわよ。見えるだけだもの。相手をしなければいいわ」
「うーん……」
それは「ごもっとも」だけど、見えることが普通でないと言われると、恐ろしくなってしまった。
「ま、何か考えておくわ。今日は帰っていいわよ。私は寝るから」
お義姉さんはそう言うと、休憩室に行ってしまった。
―――――春海の家―――――
「ただいま……」
「おかえり。ごはんは?」
一晩帰らなかっただけなのに、久しぶりに母に会った気がした。
(俺、呪いが見えるんだけど、ウチの家系ってこうなの?)
そんなこと聞けるわけがない。
「いい。眠い……」
もう眠くなかった。
何か調べられないものかとパソコンを起動させてみた。
それらしいワードで検索しても、オカルトにかぶれたうさんくさいサイトばかりヒットして参った。
「俺じゃどうにもならんか……」
パソコンの電源を落として、ベッドに寝ころんだ。
お義姉さんが何か考えてくれるらしいが、一人になるとどうにも不安だ。
(独りじゃないのが救いか)
お義姉さんが言うには、志乃にも見えるらしい。
(あの人、何なんだろうな)
――地獄の門番が、門前払いに来てあげたのよ――
いやいや、地獄って。
疲れは残っているが、疲れきっているわけでもない。
本来ならここで適当に抜いて、そのまま寝るところだけど、そういう気にもなれなかった。
僕は宙ぶらりんな気分で、特に空いてもいない腹に朝食を詰めることにした。
「あれ、やっぱり食べるの?」
「うん」
「疲れとるねぇ。大丈夫?」
「うーん。……父さんは?」
「釣りよ」
「あ、そう」
(父さん、釣りなんかやってたかな)
調味料の入った引き出しを開ける。
「母さん、鰹節きれてる」
僕は納豆に鰹節を1パック全部入れて食べるのが好きだ。
「あらら。買い物行ったら買ってくるわ」
「うん」
やっぱり、どうでもいい内容の会話をすると、思考が普段どおりに引っ張られるせいか落ち着く。
「母さん、うちのご先祖様って何してた人か知ってる?」
茄子は好きだけど、味噌汁に入ってるのはいただけない。
「なに?急に」
「いや、お彼岸近いじゃん。9月だし」
僕は沢庵を噛む。
「お父さんとこは農家で、お母さんとこは、ご先祖様はお侍だったみたい」
「フッ」
なぜか笑ってしまった。
どうしても日本史のビッグネームしか頭に浮かばない。
「まあ、武士もピンキリだからね。うちはキリの方」
「ああ、うん」
(なんだ、イタコや陰陽師じゃないのか)
農家と武士。どちらも現実的に生きてそうだ。
「血筋説」はなくなった。
食事を終えて部屋に戻ると、いよいよすることがなくなった。
学校から簡単な課題は出てるけど、今する気にはなれない。
(志乃、まだ寝てるかな)
志乃にメールでもしようかと思ったけど、やめた。
―――――春海の家・昼前―――――
「義弟、起きなさい」
「うー、んー」
結局、何もできず悩むだけ悩んで眠っていたらしかった。
「起きなさい」
お義姉さんの声がする。
薄く目を開けると、彼女が部屋に立っていた。
「また事件ですか……」
僕は布団をかぶって背中を向けた。
あのときは神経が昂っていた。怖くなかった。
「違うわ。あなたの為に来たんだから反抗期な振る舞いはやめなさい」
「俺は、怖いですよ」
「妹だって怖がるわよ」
「そこで志乃を引き合いに出さないでくださいよ」
彼女の名前を出されると、僕は動かざるをえない。
亡霊を殺した志乃の暴走を思い出す。
(いや、あれは理性の上で殺してた)
あんなことはさせたくない。
「志乃を戦わせるのは嫌です」
「私もそう思うわ」
僕とお義姉さんでは、志乃が可愛い、極力危険な目に遭わせたくないという点で一致している。
それなら、わかってもらえる。
体を彼女に向けた。
「だけど対抗する術は持っていたほうがいい」
お義姉さんが目を大きく開いた。
驚いたらしかった。
「怖いんじゃなかったの?」
「怖いですよ。だからこそ逃げることもできなくなったときのことを考えると、もっと怖い」
窮鼠猫を噛むというが、今の僕には猫を噛む前歯もない。
「いざとなったら志乃が戦えない、こともないのはわかってますけど――
でもやっぱり、あいつにあんなことはさせたくないです」
「過保護ね」
「お義姉さんだって同じことを考えると思いますよ」
お義姉さんは椅子を引いて座った。
「それで、義弟はどうしたいの」
彼女も半分はわかっていると思う。
「俺に盾をください」
「盾」
「盾っていうのは喩えですけど――ただの人間にも、結界は張れるのはわかりましたから」
「ああ、昨日の」
「そういったものが、瞬間的に出せるようになればいいんですけど」
「妹の――盾になるつもり?」
「そんな大それたもんじゃないです。俺たちが安心できる材料を少しでも増やしたいだけです」
「やけに謙遜するわね」
「長いこと人間やってるとこうなるんですよ。――それで、できそうですか?」
「できるけど、練習が超地味よ。ほんと嫌になるくらい」
「平気です。もう十分面倒は被ってますから」
お義姉さんはポケットを探ると、指輪を出した。
見たところ、フラットなデザインの銀でできたもののようだ。
「これをはめて。右手の中指ね」
僕は受け取って、つまんで観察する。
輪の内側には何か石が埋めてあった。
「それ自体があなたを守ってくれるわけじゃない。
力を増幅させたり調整してくれる、補助的なものね」
言われたように、はめてみる。
確かになんともなかった。
「それで、どうすればいいんですか」
「地味よ。もんのすごい地味よ。覚悟なさい」
「えらく引っ張るなぁ……何なんですか」
お義姉さんは立ち上がって頭を掻いた。
「地味すぎて命じる方もちょっと嫌なのよねぇ」
(命令に地味も派手もあるんだろうか。この人にはあるのか)
彼女は少し間をおいて、
「きれいな円を、フリーハンドで描けるようになりなさい」
と言った。
「……はぁ」
意味はあるのだろうが、確かに地味で少しの間呆然とした。
「なによ、リアクション薄いわね」
「ああ、ほんとに地味だったので」
「これだから言いたくなかったのよ」
「俺、漫画描きたいわけじゃないですよ」
(手塚治虫はできるんだったっけな)
「いいからやりなさい。ほんとに役に立つんだから」
少しむきになってきたようだ。
「わかりました。やります。やりますって」
やるべきことができて、少し気分に張りがでてきた。
「それじゃ、がんばってね」
そう言って、お義姉さんは消えた。
他にしたいこともないので、父の書斎からコピー用紙を適当に束でもらってきた。
(円ねぇ……)
久々にコンパスを出して、いくつか大きさを変えて描いてみた。
(まあ、これなぞってれば癖が付くんじゃないかな)
まずは模倣から。
コンパスで描いた円を何度もなぞってみるが、30分もしないうちに飽きた。
(いやいや、飽きるまでやったってことは、案外描けるようになってるかも)
白紙を出して描いてみる。
(だめだ。タテに長い……)
やり直し。
(だめだ。ヨコに長い……)
(だめだ。ココでっぱってる……)
(だめだ。ココひっこんでる……)
(これは……地味だけど、いや、地味であるが故にキツイぞ……)
「フリーハンド、円、コツ……っと」
困ったらグーグルに相談だ。
「教えてグーグル先生ー」
(ああ……漫画の神様とか紙を回せばいいとか、Shift押しながらドラッグばっかりだ)
(これは詰んだな)
(地道にやれということか)
急激にやる気がなくなっていく。
ベッドに入ろうとしたところで、インターホンが鳴った。
階下からやりとりが聞こえる。
――ママさんこんにちはー。
――あらぁ、志乃ちゃん。どうしたの?
――春海君がバイト先に携帯忘れたから届けにきますた。
(そういえば、まだ帰ってから携帯使ってなかったな)
足音が階段を上ってくる。
僕は机とベッドの間で、どっちつかずの中途半端な姿勢で志乃を迎えた。
「春海ー、はよーん」
と、志乃は手を挙げる。
「おはよーの時間じゃないだろ。昼。アフタヌーン」
「さっき起きたんだもーん」
「はい、携帯」と、僕に手渡す。
「ありがとな」
開いてみると、志乃からの着信が残っていた。
「悪い。何か用だった?」
「用は特にない。お話したかった」
「そうか」
かわいい奴め。
志乃の目が机の上で留まった。
「あ、丸がいっぱい」
「ああ、それは――」
説明しようと体を向けた瞬間、志乃が飛び込んできた。
「おおぅ……どうした志乃……」
「春海ががんばるっておねーさんから聞いた」
「あの人と喋ると筒抜けだな」
「ちょっと感動した」
(ちょっとか……やっぱり修行が地味なせいか……)
志乃は僕の首に腕を回して、唇を合わせてきた。
(いつもより長いな)
息苦しくなったところで離す。
「――ぷは。じゃ、私は帰るね」
「お、おう……」
「がんばってね」
部屋を出るとき、彼女は振り返って微笑んだ。
僕は鼻の下を伸ばしながら見送った。
(ぃよっしゃあああああがんばる! もうね、俺超がんばっちゃう!)
(シモ・ヘイヘだって秘訣は練習だって言ってるしな!)
あー、俺って単純。
お義姉さんだって言い出すのを嫌がってたし、地味ーで成果がわからないけど、意味はあるのだろう。
そうでなければ、あの人がやれと言うはずがない。
志乃の容態がまだ安定しなかったとき、志乃の口に指を突っ込めと言われたときは面食らった。
だけど、それもちゃんと意味があった。
やる気が失せないうちに、僕はまた机に向かった。
―――――月曜・学校―――――
僕は授業中も丸を描いていた。
ノートの余白がランダムな水玉模様になって、草間弥生リスペクトみたいになった。
「春海、ノートがキモいぞ」
長野に見つかった。
没頭していて隠す間もなかった。
動揺を悟られたくない。
「ああ……きれいな円を描こうとがんばってたらこんなことに……」
「なんでまた」
「最近、絵が上手くなりたくてなー。
直線とか丸描いて線の描き方練習したらいいって聞かない?」
「そうなん?」
「いや、よくわからんけど」
「なんだよー、もー」
「俺もちょっと調べただけだもんよー」
「あー、でも俺、むきになるのちょっとわかるわ」
長野が僕のノートに目を落としながら言う。
「おお、わかってくれるか」
シャーペンを置いて手首を回す。
仮に腱鞘炎になったとして、原因が「マルの描きすぎ」なんて恥ずかしい。
「貸して貸して。俺、結構得意なんだよねー」
「ん」
シャーペンを渡す。
長野は適当な余白を見つけると、迷いなく、シャッとペン先を走らせた。
「どうよ、これ」
粗を探せないこともないけど、ぱっと見た感じ、円だった。
「なん……だと……」
僕の昨日からの丸一日の苦労はなんだったんだ。
「お前、なんか練習した?」
「まあ、たまに描いてたけど、そんな必死にはやってないかな」
「はあぁあああ?なんだよこの美しさは。一朝一夕で身に付くもんじゃねーぞ!」
「そんな必死にならなくても……」
そうだ。たかがマルだ。
だけど今回ばかりは身を守りうるマルなのだ。
「で、コツあるの?」
「コツっていうか……まあ、コツか。
紙の上に線が見えるくらい、円をイメージして、線が見えた瞬間に迷わずなぞる」
思いがけず、有用そうな答えだった。
「イメージか」
「そう。俺のイメージ力はアスリート並!」
妙な喩えだ。
「イメージねぇ……」
「そう! 俺は今まで一度もインターネットやエロ本を頼らなかった男! すべては想像!」
「お前、かっこいいようでやっぱりかっこ悪いわ」
「そこは誉めたたえて!」
こいつ、図に乗るとしばらくテンション高いからな……。
(素直ないい奴ではあるんだけどな……)
「うーん、ああ、でも助かったわ。サンキュー」
「え、助かったの?なんかよくわかんないけど俺ってえらいわー」
「うんうん」
闇雲に手を動かしてきたけど、ちょっと気が楽になった。
―――――放課後・志乃の部屋―――――
「――というわけで、きれいな円を描くにはイマジネーションが大事らしい」
「ほう」
「だから俺は、まるいものをイメージするところから始めようと思う」
「ほうほほう」
「そこで印象に残りやすい丸いものを頭に叩き込みます」
「いやな予感しかしない」
「志乃、おっぱい見せてく――ぶっ」
枕が顔に飛んできた。
志乃はベッドに飛び移って避難している。
「ヘンタイだー!」
布団をかぶって、胸の前でかき合わせている。
「なんだよ、解禁してくれただろうが」
「まだ見られるの恥ずかしいんだもんバカバカー!」
「羞恥心と命どっちが大切なんだ」
「どっちも! ていうか丸いのなら他のがあるじゃん! ボールとか!」
「あれは直接的すぎて俺を円という枠にはめにかかるんだ!」
「じゃあそれでいいじゃん! なに自称・大器晩成型のダメ人間みたいなこと言ってんの!」
「俺はダメ人間じゃない! ちょっとばかりエロで釣ってくれた方がやる気が出るだけだ!」
「あんた十分ダメだよ!」
煩悩と羞恥心の応酬の後、二人で大きく息を吐いた。
「おっぱいは円じゃない」
「知ってる」
「じゃあ見せろとか言うなよぅ……」
志乃は布団をかぶったままいやんいやんと身をよじる。
布団の固まりが揺れている。
「だけど乳輪は円かもしれない」
「いやいやいやいや」
「俺はその可能性に賭けてみたい」
「あんたって人はー! もう! もう何?なんなの?」
身構えたが、投げるものがないせいか何も飛んでこなかった。
「もー! 私真剣に聞いたのに! ファック! まじファック!」
「志乃、俺たちの為だ」
「おっぱいで救える命などあるものか」
「あるよ。少なくとも二つは」
「真顔で言うなもうやだああああああああ」
志乃は布団をかぶったままうつぶせになって、足をばたばたさせる。
(志乃、ケツ出てるぞ)
ああ、尻も丸いな、そういえば。
僕は存分に注視する。
身の置き場に困ったので、ベッドに腰掛けた。
「頭隠して尻丸出しだぞ。今日はピンクか」
志乃は止まった。
一旦布団に全身を隠してもぞもぞすると、頭だけこっちに向けて出した。
(かたつむり……しのつむり……)
志乃から布団を奪ったら、携帯を忘れた現代っ子くらいオロオロしそうだ。
彼女にとって、布団は羞恥心を守ってくれる殻のようなものなんだろう。
「そんなに見たい?」
「見たいとも」
「なんでよ」
「おっぱいを求めるのに理由が要るかい?」
「…………」
志乃は頭が痛いときみたいに、眉間にしわを寄せて、ぎゅっと目をつぶった。
「おかしいと言われてもいい。
俺はお前の裸をちゃんと見るまでは死ねない」
「どっかで聞いたフレーズだな……」
志乃は布団にくるまったまま傍にきて、頭を僕の膝にのせた。
「まあ……あんたもココ、見せてくれてるしねぇ……」
手を出して、平常心な棒をつついてくる。
「おお、柔らかい」
「それが普通なの」
「おもしろい……」
「その気がないならツラいからやめて……」
僕はおっぱいを見せてほしいと頼みに来たのであって、生殺しにされに来たんじゃない。
「じゃあさ、イメージだとか練習がどうとか変な理屈こねないで素直に見たいって言って」
「さっきから言ってるよ」
「ちーがうー。最初に見たい理由がどうとか言ってた」
志乃は僕の膝をぺちぺち叩いて抗議する。
「こだわるなぁ……」
「そりゃこだわるよ。敬意を払いたまえ」
「俺みたいなこと言うなぁ」
「あんたが言ったんじゃん。もー」
(お前こそ見せたいのか見せたくないのかどっちなんだ)
(ああ、理屈抜きで単純に求められたいのね)
僕の頭の中のお義姉さんが「女ってめんどくさー」と、ぼやいた。
「あー……見たいから見せてくれ」
「う」
「なんだよ、お前が言ったんだろ」
「わ、わかったよぅ……」
了解したくせに、志乃はまた布団にもぐってしまった。
「テ、テンションが素だと恥ずかしい……」
弱々しい声がくぐもって聞こえた。
(そっちの問題かよ)
志乃が布団から赤くなった顔を出す。
「恥ずかしいの、気にならないようにして」
「暗くすると見えないんだが」
「……そうじゃなくて、恥ずかしいの、考える余裕がないようにして」
「ほう」
「うう……やだ。もう言わない」
「よしよし、任せんしゃい」
僕はベッドに仰向けに寝ころんだ。
「志乃、来い」
「えええ」
「俺をまたぐか、俺に座るかしたまえ」
「う、重くても知らないぞ」
「あー、平気平気」
志乃はもじもじしながら僕の体をまたぐと、遠慮がちに腰を下ろした。
「あああ、あのさ、この体勢って」
彼女は両手で顔を覆う。
「言わなくていいことは言わないでおけー」
「おk?」
困った顔で首をかしげる。
「うんうん」
志乃は硬直してしまっているので、ネクタイを緩く引っ張って顔を寄せた。
彼女は倒れ込みそうになると、僕の胸に手をついた。
「うう、何?」
「緊張しすぎ」
「そ、そんなことはない」
「そう?」
「そうだよ」
「そうか。じゃあいつも通りにして」
志乃は「あうぅ」とか「えうぅ」とかよくわからない声でうめくと、そろそろと顔を近づけて頬にキスした。
志乃が顔を離そうとするのを、両手でがっちり捕まえる。
「な、なによぅ……」
「まだ遠慮してるな。体重かけていいよ」
「どうすればいいんだ……」
「まずはその、突っ張ってる手をよけるんだ」
志乃が手をどかすと、僕の上に倒れ込むようになった。
僕の胸で、志乃の胸がつぶれる。
「ね、ねえ……これエロくない?」
(わざわざ申告してくるあたり照れてるな)
「なんなら動いてもいいぞー」
「そんなことしないもん」
肩が震えている。
「うんうん。ほら、固まってないでちゅーしよ」
「ぬううう……が、がんばる……」
志乃は軽く首を振って、僕の唇を軽く噛んだ。
僕は少しだけ舌を出して唇を舐めて、だんだん絡ませていく。
顔を捕まえている両手で、そのまま志乃の耳をふさいだ。
しばらくすると、吐息に甘えた声が混じってきた。
「はっ……うぅ、ん……なんかっ、それだめ……だめっ」
「だめ」とは言うものの、「やめて」とは言わない。
(ああ、これがいいのね)
などと、冷静に分析しているつもりで僕の頭も結構トロトロになっている。
たぶんこのまま続けたら、溶けた脳が耳から流れる。
(それでもいいやぁーあはははは)
「あっ、う。やだあぁ頭ん中でぐちゃぐちゃいってるぅ」
(僕はすでに頭が液状化現象です)
志乃も、僕の耳をふさぐ。
口内で粘膜がぺちゃぺちゃ接する音が、頭骸に響く。
「う……確かにこれはやばいな」
「だからだめって……ん、言ったのにぃ……」
(あ、でもやめないのね)
苦しくなったのか、志乃は顔を離した。
僕の上で、乱れた呼吸を整えている。
僕は片手で背中をさすりながら、もう片方の手で尻から脚を撫でる。
たまにびくっと体が跳ねるのがいい。
「いい?」
志乃は曲げた指の関節で唇を押さえながらうなずく。
(うーん、可愛い奴め)
肌の出ている部分が汗ばんできている。
シャツの裾から手を差し入れる。
怒られるかと思ったが、彼女はされるがままになっている。
そのまま手を肩甲骨のあたりまで滑らせる。
汗でシャツが張り付いて、服の中は思ったより自由がきかない。
(あれ、サラシじゃなくなってる)
ホックを外そうとがんばってみるが、片手じゃうまくいかない。
(誰だ、指パッチンの要領でいけるとか言った奴は)
「……ん、手こずってるな?」
志乃がとろんとした目のままでからかってくる。
「ちょっと黙ってなさい」
両手を使って、やっと外せた。
ゆるくなったワイヤーの下から指で下乳をつついてみる。
重力の影響を受けているせいか、仰向けになっているのを触るより量感があった。
(脱がすって言ったほうがいいのか黙ってるほうがいいのか……)
僕はそんなことを考えながら、志乃のネクタイの結び目に指を差し込んでゆるめた。
元々、結び目をきつく作らないせいか、思ったより簡単にほどけた。
(黙ってネクタイ取って、文句言われないってことは、いいんだよな……?)
せっかくとろけていた脳が、要らん方向で思考力を取り戻してきた。
(やりにくいな……女は服の合わせが逆だったか)
苦戦しながらボタンを外していく。
志乃はどうしていいかわからないらしく、きつく目を閉じて僕の服をつかんでいた。
(ボタン全部外せたけど、スカートだけ残すのも間抜けだしなぁ……)
僕はまた要らぬことに気を遣いながら、志乃の肩を露わにしていく。
蛍光灯の明かりの下だと、肌が妙に生々しい。
シャツの生地が、肘のあたりで下着と一緒に下りなくなってしまった。
「志乃、腕抜いて」
「……あっ、ご、ごめっ」
彼女は何も考えていなかったようで、素直にそうしてくれた。
ブラジャーのカップの上辺が、胸の先にひっかかっている。
なんとも頼りない最後の砦である。
指をかけて少し引っ張ると、志乃は完全に上半身裸になった。
盛り上がった白い肉のてっぺんに、ピンクがかったベージュの乳輪と上を向いた乳首がついている。
さんざんつついたせいか、硬くとがっている。
ただでさえ生意気おっぱいなのに、ローアングルからの眺めは絶景で、僕は息を飲んだ。
「……うぅ……な、なんか言って」
絶句していたらしく、志乃が気まずそうに口を開く。
「いや、その、感動していた」
「うー、ばかばかエッチー……」
志乃は顔を覆ってうつむく。
その腕で乳房が両側から圧迫されて、ぎゅっと寄せられた。
(あー、俺はその右おっぱいと左おっぱいの間に挟まりたい)
もう円とかイメージとかどうでもよかった。
僕の頭はおっぱい一色だった。
脳の皺一本一本が「おっぱい」の単語でパテ埋めされてツルンツルンになるくらいおっぱいだった。
志乃の体を無理矢理抱き寄せて、胸の先に口を付けた。
口の中にこりこりしたものがある。
どうしていいか迷う余裕もなくて、ひたすら吸った。
志乃が小さく悲鳴をあげて、僕の頭をかき抱く。
「春海っ、痛い、ちょっと痛い」
我に返って口を離した。
志乃のおっぱいが僕の唾液で塗れている。
僕はそれを見て、妙に満足感を覚えた。
「ああ、すまん」
「もー、赤ちゃんじゃないんだから」
「そのおっぱいで育ちたかった」
「その願いは来世に持ち越しだな」
志乃は僕のシャツをつんつん引っ張る。
「なんだよ」
「あんたも」
「何?」
「……あたしにも触らせろよぅ」
あの、彼女の「空腹時」特有の花の香りはしない。
「はい、喜んでー」
「居酒屋か」と、つっこみながら、彼女は僕のボタンに手をかけた。
「やりにくい……」
もどかしそうにしているので、結局僕が自分で脱いだ。
志乃はどうしていいかわからない様子だったけど、僕の真似をすることにしたらしい。
志乃が僕の体に唇を当てるたびに、既に限界近くまで膨張している箇所が自己主張するように脈打つ。
僕が呼吸を荒くすると、志乃は「ふふん」と笑って頬ずりしてきた。
「気持ちいい?」
「多幸感がすげえ」
「タコ缶……?」
(あー、絶対勘違いしてる)
「脳汁がドバドバ出る」
「しる…………」
志乃が僕の股間に目をやる。
そこに座ってるから見えはしないんだけど。
「要る?」
「要るー」
即答である。
これに限ってはあんまり恥じらわないのね。
「その前に志乃をいじり倒さないとなー」
「うぅ……あたしはいいよぅ……」
「ほぉーら、恥ずかしいと思う余裕もなくなるぞー」
志乃の首をつかんで、首から耳へ舐めあげる。
しょっぱかった。
「ひゃ、あああぁ、っはぁ…………もう!」
涙目でにらまれても怖くないです。
手をスカートの中に滑らせる。
「パンツ脱がなくていいの?」
「うぅ……いい。もう悲惨なことになってそうだし」
一通りお尻の丸みを楽しんでから、肝心な所へ移る。
そこから分泌された液は、すっかり生地に染みこんでいる。
確かにもう手遅れだった。
「うーん、時すでに遅し……」
「だから言うなぁ……っ」
クロッチの部分をずらして、指を侵入させる。
志乃が喘ぐと、指を包む粘膜が奥へ引っ張ろうとしたり外へ押し出そうとしたりする。
中身をこね回したり側面に指の腹をこすりつける。
「ふ……春海、もっと」
「大丈夫か」
「うんん……たぶん」
かと言って、あまり激しくして傷をつけてもよくない。
迷った挙げ句、もう一本指を入れてみることにした。
一旦中指を抜いて、薬指と重ねてねじ込むようにゆっくり挿入する。
「痛くない?」
「ん、ちょときついけど、痛くない」
(これに慣れたら、俺の入れても大丈夫かな)
志乃は恥ずかしさの上限を振り切ったようで、自分から腰をくねらせて勝手に気持ちよくなっている。
僕はその様を眺める。
「ああああぁ、ん、は……っ。み、見るなぁっ」
「見ないほうがムリだわ」
「やだあぁ」
上の口では「いやいや」と言うが、下の口がなんとかかんとか。
「大丈夫、可愛い可愛い」
本心である。
「ううう、もう、ばかばかぁっ。気休めには騙されないんだからなっ」
それがまともに口も閉じれない人間の言うことか。
(これはある種の才能だな……)
(どこがいいかわかりやすくて助かるけど)
途中から志乃の声は言葉じゃなくなった。
やがて、短く叫ぶと体を反らせていってしまった。
脱力しきって、僕の上に倒れている。
指を抜くと、彼女は短く痙攣して、少し声をあげた。
「うう……またいかされた……」
「うんうん。いいことだ」
志乃は体を起こそうとするが、だめだったようだ。
「……んっ。ごめん、力が入らない」
「いいよ。そうしとけって」
「あー、うー……後でがんばる」
「期待してるー」
「ねえ」
「ん?」
「その、入れたいって思う? こっち」
と言いながら、すまなそうに僕の性器を服ごしに撫でる。
「そりゃもう」
「そか」
「焦ってはないから、気にするなよ」
「うん。……いや、そうじゃなくて、してみたいなって」
「早まるなー!」
「そんなんじゃないよぅ。案外痛くなさそうなんだもん」
「うーん、それなら歓迎するけど、俺にはコンドーム的なものがない」
「あたしにもない」
「薬局に行く度胸もない」
「あたしにもない」
「先は長いな」
「ああ」
(そう悪くない気もするけどねー)
志乃の髪に顔をうずめる。
熱気と湿気が、僕の鼻をくすぐった。
妙に有機的な感覚で、志乃がとても生き物らしく思えて、ほんの少し切なくなった。
―――――志乃の家からの帰り道・夕方過ぎ―――――
僕はあの後、志乃に口で二発抜かれて恍惚とした感じを引きずりながら歩いていた。
(今日は電車使っちゃうぞー)
志乃の家と僕の家は、電車で一駅。
歩けない距離ではないので、僕はあまり電車を使わない。
日中はまだ暑いのに、日が落ちるのだけは早い。
文化祭前で、駅で見かける同じ学校の生徒も多い。
(そういえばうちのクラス、何するんだったかな)
まだ出し物は決まってなかったはずだ。
何かしら、クラブに入ってる奴は準備で忙しそうにしてるけど、僕は帰宅部なので関係ない。
駅前のバス停に、いつもは見かけない顔がいた。
(あ、あれは文芸部の……)
どこにでも、男女問わずアウトローな、いや、アウトサイダーな人物はいる。
メガネをかけた、いつも不機嫌そうな女子。
志乃とは中学が同じだったらしく、たまに話しているのを見かけるけど僕は彼女が苦手だ。
どう接していいかわからない。
成績は常に上位だけど、誰も彼女に教えてもらったりノートを借りようとしたりしない。
一目置かれながら、ついでに距離も置かれている人物だ。
(うわ、目があっちゃったよ)
無視するわけにもいかず、会釈した。
向こうもそうする。
(うう……なんだよ、この牽制しあってる感じ……)
お互い悪意はないが、積極的に関わりたいとも思っていないという点は一致しているだろう。
通り過ぎる瞬間、すごく嫌な感じがした。
背中に毛虫が入ったような、悪口の書いてある紙を貼られているような――
とにかく不愉快だった。
「えっと、私に何か?」
僕は彼女を見ていたらしい。
しかも、顔を露骨に歪めて。
「いや、ごめん。背中痛くて」
「そんな顔しないでくれる。私何かしたみたい」
彼女も同様に顔を歪める。
そのひきつらせた頬に、虫が這っているように見えた。
「あっ」
「え?」
「虫が――」
「は?」
彼女は、ますます不可解そうに、機嫌悪そうになる。
「いや、虫かと思ったら葉っぱだった」
「……はぁ」
ちょうど、バスが来た。
彼女は納得したようなしていないような顔で乗り込んだ。
(助かった……)
―――――火曜・学校―――――
志乃は頭の後ろで、丸く髪をまとめていた。
「なに、メイド長?」
「これで髪が伸びても、しばらくは大丈夫」
「賢いな」
「ふふふん」
彼女は得意そうに鼻を鳴らした。
ふと、先週から空いている席に目を移す。
「どうした」
「いや、今日も来てないなって」
「あー」
昨日の彼女と、唯一親しそうにしている女子だ。
(志乃に、虫っぽいの見えたって言わないほうがいいのかな)
(でも、あれが呪いだったら?)
(彼女は呪われてるのか、呪ってるのかもわからない)
彼女の席も空いている。
(彼女は、どっちだ?)
事情を聞ければいいのだろうが、僕から話しかけるのは不自然だ。
かといって志乃に接触させるのも嫌だ。
(呪ったり呪われたりなんて、やっぱり嫌だな)
そんなことを考えながら、僕は手を動かしていた。
「おーう、春海、いい感じじゃーん」
長野が様子を見に来た。
「おう、お前のおかげだ。恩に着るぞ」
「しかしそこまで必死にやる必要があるもんかねぇ」
(あるからやってるんだよ)
「何かにハマるのに理由が要るかい?」
矛先をずらしたくて、なるべくおどけた。
手首を回す。さすがに疲れた。
(昨日は志乃をいじり倒したしなー。うへへへへ)
志乃は「昨日は別にエロいイベントなどありませんでしたが?」
といった感じで小テストの予習をしている。
僕は、この単元は得意なので何もしない。
ひたすらマルを書く。
長野はいつも何もしない。
手首を回して休ませる。
「あ、そうそう。手で書くんじゃなくて、肩や肘を使うといいよ」
「早く言えよー」
「普通そこまで本気だと思わないじゃーん」
「肩を使えとか、お前はカントクか」
「何のだよ」
「ま、やってみてよ。やってるうちにわかるから」
「あー、カントクが言うならやってみようかな」
「うんうん。早くきれいに書けるようになって、春海は俺が育てたって言わせてね」
僕は適当に相づちを打ちながら、早速手首を紙から浮かせて、肩から動かすように鉛筆を走らせる。
(思ったよりやりやすいな)
「そうそう。それで、頭としっぽをつなげることを意識して、なるべく迷わないように」
(お、これは結構いい感じなんじゃないか?)
「お前、教えるのうまいな」
「ま、がんばって~」
そこで、チャイムが鳴った。
―――――火曜・昼休み―――――
「今日も志乃ちゃん作?」
「ああ、うん」
志乃は精力に関係なさそうなものも作れるようになって、弁当の詰め方も慣れてきたようだ。
「よく続くなー。えらいと思うわ」
毎日とまではいかないが、元気のあるときは作ってくれる。
「そうだな」
言及されると、ついにやけてしまう。
「うっわ。なんだよもう」
「ああ、いや……フフッ。すまん」
「キモッ! なに! なんなのもう! 結婚しろ結婚!」
ふと、避妊のことが頭をよぎった。
(やっぱり愛と責任ある性交をせねばなりません)
僕は心の中で拳を握る。
「……この年じゃ出来ん」
「なにもう! 煽りにマジレス!?」
「いや、ネットじゃねえんだからさ」
空になった弁当箱を包んで席を立つと、彼女の席に汚れが見えた。
気のせいだと思いたくて、目をこすった。
「あの人、居づらそうだよね」
「あー、教室にいるのあまり見ないな」
「仲良し二人組で、友達休んでるとねー……」
「心配なら話しかけてみれば?」とは言わなかった。
彼女は同情されるのを嫌がりそうだ。
特に、「あなたを気にかけていますよ」と言いながら、特に何かをしてくれる訳でもない同情は。
(なんかこう、跳ねつけられそうなんだよな)
(ATフィールドというか、リフレクかかってるというか)
「マホカンタ……」
僕はどうしていいかわからず、頭をかきながら呟いていた。
―――――火曜・放課後・ナオミの部屋―――――
「――と、いうわけなんです」
「あ、そう」
お義姉さんは興味なさそうに頬杖をついている。
(あんたの仕事でしょうが……)
「いつ気づいたの?」
「ああ、昨日帰る途中でなー。俺ん家の近くの駅前で」
「珍しいね。文芸部って半分帰宅部みたいなもんだと思ってた」
志乃が唇をとがらせる。
「俺もそう思ってたから、あそこで神田さん見たときはびびった」
バス停に佇む、彼女の姿を思い出す。
「でさ、こう、目が合っちゃったから頭下げてったんだよ。無視するのも変だし。そしたら、神田さんの顔に黒いものが――」
「義弟よ、それは呪いだったの?」
「うーん……だと思いますけどねぇ。だってほっぺたを虫がうぞうぞ這ってたら気づくでしょ」
「見間違い説浮上!」
志乃が横やりを入れる。
自分の身近なところで、こんなジメジメした事件は嫌なんだろう。
僕だって嫌だ。
「志乃、お前見てないのか」
志乃は神田さんの友人・上木さんの席に目を留めていた。
「え、呪いって虫なの?」
そういえば、前回は呪いを見ずに済んだな。
「虫っつーかゲルっぽいっつーか……とにかく黒くて気持ち悪いな」
「……あー、じゃああれ、呪いかもしんない」
「これじゃ、どっちがどうなのかわからないな」
「二人ともしっかりしてよ」
お義姉さんが呆れて、大きく息を吐いた。
気を取り直すためか、テーブルの茶菓子に手を伸ばす。
志乃もそうした。
「……で、どう見えてるの?」
「俺が確認できたのは、神田さんの頬をムカデみたいなのが這ってるのを――」
「私は、上木さんの机に、カビみたいなのがびっしりついえるの」
(どっちを見てても、気分のいいもんじゃないな)
「少なくとも、その二人に呪いが見えた、と」
志乃が事務所の隅からホワイトボードをカラカラと転がしてきた。
「それ、要るか?」
「ミーティングを演出しようと思って」
志乃はマーカーのキャップを外した。
「さ、義弟。現状で何が想定できる?」
「えっと、じゃあ現時点で考えられるのは……
神田さんが上木さんに呪われてるケース、
上木さんが神田さんに呪われてるケース、
二人そろって第三者に呪われてるケース、
お互いが呪いあってるケース……ってことですか」
僕が言ったことを、志乃がホワイトボードに書いていく。
(おお、確かに作戦会議っぽいな)
不謹慎にもわくわくしてしまう。
「で、その二人は誰かに恨まれるようなことしてる?」
「俺の知る限りでは、何も」
「特に嫌われてはないけど、いつも二人でいるし、あんまり愛想ないから近寄りがたいかも」
マイペースに見えて、志乃の方が人間関係を把握している。
僕はもう少し、周りに目を向けたほうがいいのもしれない。
「確かに、これと言って嫌われることはしないんですけど、どことなく浮いてはいますね」
「なるほどねぇ……」
「私は二人と中学一緒だったから、ちょっとは話すけど……でも、長くは続かないなぁ。会話」
志乃は少し後ろめたそうに言った。
「それで、その上木さんっていう子は先週の半ばから来てない、と」
「そう……ですね」
「となると、接触しやすいのはそのメガネの――」
「神田さんです」
「じゃ、その神田って子にコンタクトを取ってみましょ」
(うーん、毎度のことながら簡単に言ってくれるなぁ)
どうしたらあのATフィールドを中和できるんだ。
「彼女に言うことを聞かせやすい立場の教師はいるかしら」
「関わることが多い先生ってこと?」
「そんなとこね」
「それじゃ、文芸部の顧問の先生かなぁ。
今、文化祭の準備で盛り上がってるみたいだし」
(文芸部にも盛り上がることあるんだ)
(そもそも文芸部って何してんの?読書?)
ここにきて、やっぱり僕は何も知らないんだな、と自信が揺らいだ。
「わかったわ。私が手を回しておくから安心しなさい」
(嫌な予感しかしない)
安心どころか不安である。
「あの、手を回すっていうのはどうやって……」
「ああ、その顧問の先生っていうの?
ちょっと操ってあなた達があの子と話しやすい状況をつくるだけよ」
それなら失敗しなさそうだけど、後ろめたさが残る。
「志乃は、他に神田さんのこと知ってる?上木さんのことでもいいけど」
志乃はマーカーを指揮するように振る。
「うーん、めっちゃ頭いいー」
「それは俺も知ってるよ」
「あ、でも上木さんはフツー」
志乃の言う「フツー」がどの程度か知らないが、それはちょっと無礼じゃないか。
(接点ゼロだった佐伯さんの件よりマシか……)
僕はお義姉さんの根回しにビビりながら、ナオミの部屋を後にした。
別れ際、志乃が人目を忍んで一瞬だけキスしてくれたので、ちょっとがんばろうという気になった。
―――――水曜・学校―――――
国語の授業の後、僕たちの担任でもある教科担当から呼び出された。
「志乃、これは……」
「おねーさんだね……」
「え。担任、文芸部持ってたっけ?」
「うーん……わからん」
「影薄いもんなぁ……で、どう思うよ」
「どうって……行かねばなるまい」
「あれ、どうなんよ。操られてるように見える?」
「私にはどうとも……」
「だよな」
二人で顔を見合わせて、「あー」と嘆いた。
志乃は露骨に嫌そうな顔をしている。
きっと僕も嫌そうな顔になっている。
―――――水曜・学校・国語準備室―――――
「二人とも、ごめんなさいね。忙しいところ」
「ああ、いえ……」
今のところ、いつもの先生だ。
「私は文芸部の顧問をしてるんですけど、準備を手伝ってほしくてね」
「はぁ。準備、といいますと」
「文化祭で部誌を発行するんだけど、その準備が追いつかなくて……
印刷会社にデータを渡すんだけど、一人、原稿を手書きにしてる部員がいるのね。
それで、二人で手分けしてデータになおしてほしいの」
「ああ、そういうことなら」
「うん」
志乃も、安心したように首を縦に振った。
「パソコンは文芸部の部室にあるから、放課後、手の取れるときに顔を出してください」
「あ、はい。わかりました」
「ありがとう。助かるわぁ。神田さんもがんばってるんだけど、彼女は自分のことで手一杯だから」
(部誌ってなんだ……がんばるって、何をがんばるんだろう)
(……ん、原稿? 原稿って何だ?)
どうにもすっきりしない気分で、僕は志乃と準備室を出た。
―――――水曜・放課後・文芸部の部室―――――
「と、いうわけ」
志乃は神田さんにざっと経緯を説明した。
「ああ、私だけじゃ手に負えなかったから……助かる」
「ありがとう」と、彼女はうなずいた。
頭を下げているつもりらしかった。
「パソコンは適当に使って。原稿はこれ」
と、神田さんは僕らに二分した原稿を渡す。
「他の部員もいるんだけど、私以外は三年だから……
受験もあるし、クラスの出し物優先みたいだから、あまり手伝ってって言えなくて」
彼女は困っているようだったが、教室で見るよりもずっと、表情に張りがあった。
(ここから聞き出せってことだな)
僕はパソコンの電源を入れた。
「えっと、Wordでいいの?」
「.txtでよろしく」
「どういうこと?」
「保存するときはテキストファイルにしてねってこと」
「?」
「まあいいや。保存するときに言ってくれ。簡単だから」
「へーい」
「何かわからないことがあったら、私に聞いて」
神田さんはさっさと自分の作業に没入していった。
志乃はぺちぺちと軽快にタイピングしていく。
キーボードの上で躍る指を眺めていると、志乃が賢くなったように見える。
僕もひたすら入力していく。
文章は決まっているので、量はあるけど気分的には楽だ。
「神田さんって文章書く人だったんだね」
志乃が話しかける。
探りを入れている風ではなく、素直に感心しているようだった。
「ああ、元々は違ったんだけど、むりやり引きずり込まれてね。
まあ、今こうして書いてるってことは、性に合ってたんだろうけど」
「むりやり?」
思わず聞いていた。
「うん。まあ、なんのまぐれか知らないけど、入学してすぐの模試、国語がすごい良かったのね。
で、担任が籍だけでも置いてくれって」
「すげーな、それ」
「問題に恵まれただけだって」
「籍だけでいいって、先生切羽詰まってたみたいだね」
「今の先輩達が卒業したら、部員は私だけになっちゃうからね。廃部よりはマシだよね」
そう言う神田さんの目には力があった。
この人はただのアウトサイダーじゃない。
ちゃんと自分の身の置き場所を見つけて、そこで力を尽くそうとしている。
少し、かっこいいなと思った。
「神田さんは何してんの」
意外とまともに話せることに安心して、声をかけた。
「推敲」
「ああ、誤字脱字チェックか」
「それもだけど、言い回しとかね、話の整合性とか」
「へー」
「締切前とはいえ、まだ時間はあるからね。仕上げはギリギリまで粘るよ」
彼女は顔を上げて、にっと笑った。
(教室でもその顔すれば、もう少し居やすそうなんだけどな……)
志乃は鞄からペットボトルのお茶を出した。
口をつけて、「ぬるい」とまずそうに舌を出した。
「ああ、熱いのでよければポットあるけど。沸かす? お菓子あるし」
「え、いいの?」
「だってこの時間、おなかすくでしょ。特に頭使うんだから糖分は常備よ」
まるでアスリートのような口振りだ。
(エトピリカ聴きたいな)
葉加瀬太郎を思い出して、少しだけ鼻歌が出た。
「ああ、イマージュもあるよ。聴く?」
神田さんは手近な引き出しをあけて、緑のジャケットのCDを出して机に置いた。
「なんでそんなもんあるのwww」
思わず気安くつっこんでしまう。
「さあ?何代か前の先輩が置いてったらしい。結構変なアイテム残ってておもしろいよ、この部室」
「文化系って深いね……」
志乃が感慨深そうに呟いた。
(まさか入部するとか言い出さないよな)
「ねえ、そういえば上木さんどうしたの?」
「私は何も聞いてないけど。……なんで私に聞くの?」
「んー、仲良さそうだから、知ってるかなって」
「それがねー、最初は風邪だと思ってそっとしといたんだけど、さすがに心配になってメールしたら無視されてさ」
そんなこと親友にされたら傷つくだろうに、彼女はいたって飄々としていた。
友人はいない。
クラスでは、なんとなく一人で浮き続ける。
平気でいられるものかな、と思う。
(僕だったらしんどいな)
「せっかくあるんだし、聴こうか」
気分を変えたくて、CDを再生する。
(エトピリカ……エトピリカ……)
「ふーんふーふふーん。ふふふーんふふーん」
緊張がゆるんで、脳内BGMが鼻から垂れ流しになる。
「えー、オープニングの方じゃないの?」
志乃が物言いをつける。
「しょーがねーなー」
(トラック16……と)
語り出すかのようなイントロから、刻むように入っていく。
(あー、俺これ聴くと、何かで一流になった人みたいな気分になるんだよなぁ)
志乃は素直に縦ノリしている。
そんなノリ方、僕は照れくさくてできない。うらやましい。
神田さんは黙々と赤ペン片手に、プリントアウトした原稿に向かっている。
「これ聴くと万能感におそわれるから細かいことする時に聴くのやばいわ」
曲が終わると、彼女はそうコメントした。
ああ、あれはノリにノッていたのか。
「志乃、満足したか」
「うんうん。てってーてーれってーてってーてーてれっててー」
僕は彼女の、大体いつも楽しそうなところが好きだ。
だけどここでいちゃつく訳にはいかないので、このときめきはそっと胸にしまっておく。
しまっていこうぜ、俺。
(えーと、エトピリカ……)
(あー……俺、これ聴くと何かを成し遂げたような、一日やりきったような気分になるんだよなぁ……)
右手の指輪が、一瞬光ったような気がした。
あの、ひたすら円をかく練習はどう役に立つんだろう。
(そういえば、僕は神田さんを探るためにここにいるんだ)
彼女と上木さんの関係性、遠くから見ていると、勝手にわかったような気になっていた。
だけど、こうして本人と話すとよくわからなくなってきた。
思ったより淡々としている。
上木さんとのことをポンポン聞くのはまずい気がした。
神田さんは頭がいい。
普段関わりのない人物のことを聞かれたら不審がるはずだ。
どうアプローチしたものか、意外と難しい。
(なんか恨まれる覚えある?なんて思惑オープンリーチな質問できないしな)
対面の神田さんを眺める。
これだけ熱中できるなら、寂しさや居づらさを感じる暇は、あまりないかもしれない。
僕は、お茶を入れようと席を立った志乃の透けたブラに視線を飛ばす。
(うーん、最近、二人きりだとエロいことしかしてない気がするな)
志乃のおっぱいが思い出されてにやけそうになる。
(他の娯楽も模索してみるか……)
(そういえば、前回は男絡みだったな)
神田さんと上木さんが、一人の男を取り合っていがみあう図は想像できない。
(うーん、却下)
「神田さんは何で文芸部に目覚めたの?」
志乃がお茶を配りながら聞く。
神田さんは棚から茶菓子の入った盆を出して、机の真ん中に置いた。
「正直、夏休みまではどうでもよくてさ。ほんとに幽霊部員でいるつもりだった」
好きなことについては、気分良く話してくれる。
そのへんは普通の人だ。
「あたし、全国見ちゃった」
「まじすか」
いきなりのインターハイ級発言と、文芸部にそれに相当するような大会があることに驚いた。
黙々と書いて発表してるだけじゃないのね。
「何もしなくて行けるもんなの?」
「先輩の七光り。去年の実績のおかげでさ。
で、勉強して来いって放り出された。あ、引率で先生付きだったけどね」
この人はこんな目ができるのか。
「で、全国はどうでしたか」
「すげかった」
と、彼女は拳を握る。
「幽霊でいるの、もったいなくなってさ。今度は絶対自力で来ようって思った」
神田さんの見ているものは、僕たちとは違うのか。
彼女の愛想の無さは、周りへの敵愾心ではなく、ただの無関心だった。
その証拠に、こちらからのアクションにはきちんとリアクションを返してくる。
(俺はこの人を誤解してたんだな)
僕は心の中で一言だけ詫びた。
―――――水曜・春海の部屋―――――
机に向かって課題を片づける僕の後ろで、お義姉さんはベッドに腰掛けている。
「で、彼女と話して何かわかった?」
「いえ、これといって動機につながるようなことは――」
あの神田さんに、誰かを恨んでる暇はない。
「彼女が自分から周りに溶け込もうとしなかったのは、人見知りでも攻撃性からでもないです。
俺には――単に興味がないからそうしなかっただけ、と取れました」
「義弟が言うなら、そうなんでしょうね」
「いいんですか。俺の言うことなんかそのまま真に受けてしまって」
「現時点ではいいのよ。最終的に判断するのは私」
そう言ってお義姉さんは脚を組んだ。
「これ以上、神田さんから聞き出せることはあるんでしょうか」
「どうかしらねぇ……」
お義姉さんは後ろに手をついて、上を向いた。
喉が、異様に白く見えた。切られたという傷は残っていない。
「上木さんのことがわかればいいんですけど……」
「私がちょっと行って手帳や携帯を拝借してくれば話は早いわ」
「それは極力したくないんですよねぇ……。同じクラスの人間ですよ。
前回は全くの他人だったけど、今回はさすがに気まずいです」
「何よ、正攻法で聞き出せるの?」
「それを言われるとお手上げですよ」
僕は椅子を回して、お義姉さんに向き直った。
「志乃の考えも聞きたいですね。あいつ、あれで結構周りのこと見てるんですよ」
「妹を誉めても何も出ないわよ」
(まんざらでもない癖に)
僕はあまり外向的ではない。
誰とでも会話はできるけど、クラスで特に親しいと言えるのは志乃と長野だけだ。
僕に比べて長野は軽いところがあるが、人なつっこくて割と誰にでも好かれる。
僕が苦もなく周りと接点を持てるのは、長野があいだにいるからかもしれない。
(少し条件が違えば、僕もアウトサイダーになっていたかもしれないってことか)
僕は彼女たちに悪意を持ったことはない。
だけど、どう接していいかわからず困ったことはある。
そして、もし自分が彼女たちのポジションに置かれることを考えると、やっぱりどこかしら恐いと思う。
(どこかで、見下してたのかな)
頭が痛いと思った。
「それで、円は書けるようになったのかしら」
「ああ、だいぶ近づいてきたと思います」
手近な紙に書いて、お義姉さんに見せる。
「完璧とは言えないけど、次に移ってもいいかもしれないわね」
僕は机の下でガッツポーズを作った。
「もう書かなくていいんですか?」
「いえ、まだまだ書くのよ。指輪を貸してちょうだい」
指輪を外して、お義姉さんに渡す。
一瞬手が触れたけど、びっくりするほど冷たかった。
お義姉さんは、指輪をつまんで蛍光灯にかざしている。
何か見えるのだろうか。
「ああ、これなら……。少し厳しいけど、できないこともないわ……」
「あの、次は何を――」
「同じよ。今度は指で空間に書くってだけで」
「うわぁ……」
「何よ。身を守る手段がほしいって言ったのは義弟でしょ。やるのやらないのどっちなの」
「やりますよ。やりゃいいんでしょ」
「かわいくないわねぇ……」
お義姉さんは指輪を僕に放ると、消えてしまった。
指輪をはめ直しながら、一人でぼやく。
「うーん……空間って言われてもなぁ……」
試しに、顔の前で指を立てて丸く動かしてみる。
(これは……目に見えない分紙に書くより地味だな……)
先が思いやられる。
僕の盾、使い物になるのはいつだろう。
―――――木曜・放課後・文芸部の部室―――――
神田さんは掃除当番で、僕は志乃と先に部室で作業をしていた。
「上木さん、結局まる一週間休んじゃったね」
「そうだな」
「春海、やっぱり呪い見えてる?」
「うん……そうだな。たまにちらちら見える」
「じゃあ、気のせいじゃないんだ」
志乃が机に突っ伏したので、僕は背中を撫でた。
「んー、だいじょうぶ」
彼女は頭を振って体を起こした。
「あ、ニャーンだ。ニャーンがいる」
志乃が廊下を指さす。
「あ、猫」
そのへんを歩いてそうな、普通のキジトラの猫だった。
「ニャーン。おいでおいでおいでー」
志乃は床にしゃがんで、胸ポケットに挿していたペンを低い位置で振る。
(なんで猫好きって、猫見るとテンションおかしくなるんだろう)
猫は警戒する様子もなく、トコトコ歩いてくると僕の足下で腹を出して転んだ。
「ぬうぅ……私が呼んだのに」
「おお、志乃がジェラシーに燃えている」
「なぜだ。春海、どっかで餌付けしたな」
「しないよ――おー、よしよし」
せっかく来てくれたのだから、僕も腹を撫でる。
一通り撫でて、パソコンに向かうが、猫は帰らない。
「あーあ。相手するからー」
「志乃が呼んだんだろー……ちょっと出してくる」
僕はすねに体をすり付けながらぐるぐる回る猫を抱いて廊下に出た。
「ニャーン」
「だーめ。おまえ、きれいだから飼われてるんだろ。おうち帰りなさい」
「ニャーン」
猫は丸い目で何か訴える。
「だめー。おうちの人が心配するぞ。じゃあな」
僕は心を鬼にして、猫に背を向けて部室に戻ろうとした。
「つまんないにょー」
なんだその語尾は。
「はぁ!?」
振り向いたときには、猫はしっぽを上げて、住宅地のある方へトコトコ……
「志乃、さっきふざけた語尾で喋った?」
「具体的には?」
「そんなん言えないにょー」
「フッ」
「鼻で笑うなよ」
「気のせいじゃない?」
「うーん、確かに聞こえたんだけどなぁ」
「どしたの?」
「いやな、猫が喋ったんだ。おうちに帰れって言ったら、つまんないにょーって」
「いーなー。私もニャーンの言うことわかりたい」
「たぶん、あんまりいいことないぞ。絶対音感の人だって全部音階で聞こえて疲れるそうじゃないか」
「それが動物でも同じことだと」
「たぶんな。俺だってさっき初めて聞こえたんだ。気のせいならいいんだけど」
「うーん、どうだろねー」
そろそろ掃除も終わりそうだ。
神田さんが来る前に聞いておこう。
「志乃、俺に呪い、見えるか?」
「うんにゃ」
即答で否定された。
「なんで急に?」
「現象自体は可愛らしいけど、異変は異変だからな。正直なところ、ちょっとびびってんだ」
「そう言われてみれば……」
志乃は上を向いて、少し考えていた。
「あ、おねーさんの可能性は? 変身できるし」
「あの人ならやりかねないな」
「先生を操るって言ってたけど、それだって潜入しなきゃできないし。
猫のふりして近づくことは十分ありうると思う」
僕が突然、動物の言葉がわかるようになるよりは現実的だった。
「よし、当面はその説を採ろう」
とりあえずの結論を出したところで、神田さんが来た。
どこか落ち込んで見えた。
昨日と同じように、対面に座った彼女の目は赤かった。
(あー、上木さんと何かあったな)
「大丈夫?」
自然と口にできていた。
志乃が少し驚いた顔を僕に向ける。
前回は、こういったことは志乃がやってくれていたのだ。
志乃はディスプレイの影で親指を立てて、唇の端をきゅっと上げた。
(誉められた……)
照れくささが一拍遅れてやってくる。
「あー……私、ひどかったみたいだわ」
神田さんは碇ゲンドウみたいなポーズで嘆いた。
こんなに簡単に話し出すなんて、相当参っているらしい。
頭の中でマヤさんが「対象のATフィールドが中和されています!」とか言ってる。
(いやいや、人を使徒扱いしてはいけません)
「聞きましょうか」
志乃は立ち上がり、ポットに向かった。
「上木さんと、連絡取れたの?」
志乃は湯呑みを口に近づけて、熱気を飛ばすように息を吹いた。
「上木、私のこと恨んでる。私がこっちにかまけてばっかりで、一人ぼっちになったみたいだって」
(そういえば、上木さんは帰宅部だったな)
「私は部の手伝いするから教室にいなくていいけど、一人であそこにいるのが嫌だって――
私、そこまで考えてなかった。そこまで見えてなかったんだ」
上木さんの欠席は、体調不良じゃなくて登校拒否だったってことか。
先週の終わりくらいから、クラスでは文化祭について話し合っていた。
上木さんが憂鬱になるのもわかる気がする。
「うーん、悪いか悪くないかって言ったら、悪いことしてないよね」
志乃が適当な言葉を挟んで促す。
僕はとりあえず、聞き役になる。
「自分でもそう思う。だけどこれって気持ちの問題じゃん」
「まあねぇ……」
志乃は頬杖をついて、「ふぅん」と鼻から息を漏らした。
「上木には悪いって思うんだけど、一方で私は悪くないって思ってて……
謝ったほうがいいんだろうけど、テキトーな理由で謝りたくないのよ」
「納得したい、と」
一言添えてみた。
「そう……かもしれない。たぶんそう」
「上木さん、端から見てると、ちょっと神田さんにべったりなとこあったからねぇ」
志乃は難しそうな顔で言うと、ぬるくなった茶を一気に飲み干した。
「お前、それは失礼だろ」
さすがに言い過ぎだと思った。
「いいんだよ。……やっぱり、周りにもそう見えてたってことか」
神田さんは茶菓子の盆から煎餅を一つ取ると、小袋に入ったままのそれを二つに割った。
「上木、私を前と同じでいさせようとしてた」
「前とっていうと、幽霊部員でいようとしてた頃?」
「そうそう。前はそんなことなかったのに、メール返さないと不安定になるし、正直持て余してたんだわ」
彼女は自嘲気味に笑った。
「ひどいって思うなら、非難してくれて構わないよ。
でも、私だってやっと目標見つかったんだ。そこは譲れない」
「でもでも、上木さんにすまないと思う気持ちはある、と」
わざと話を振り出しに戻した。
「それ言われると、私も参るわ」
「もうさ、謝っちゃえば?」
イライラしてきたのか、志乃が投げやりに言った。
「神田さんは納得したいの」
「だからさ、直接神田さんがしたことについて謝る必要はないんだよ。
結果的に、上木さんが寂しいと思ってしまった、とそのことについて謝ればいいんだって」
屁理屈なような気がするけど、自分の中で折り合いをつけるなら、その結論を選ぶ。
「――と、志乃が申しておりますが?」
「まあ、それなら不服ではないかな。
よし、一応はそれで納得する、ことにするわ」
えらく回りくどいが、それでいいと思うことにしたらしかった。
―――――木曜・帰宅中・公園―――――
頼まれた原稿の入力も終わりが見えてきたので、キリがいいいところで引き上げた。
ベンチで缶コーヒーを開けた。
「志乃、どう思う?」
「あの二人のこと?」
「うん」
「私は……もう、上木さんが犯人だと思う」
「それが自然だよなぁ」
「でも、上木さんの机についてる呪いのカスみたいなのが気になるよ」
「確かにそこは引っかかるけどさ――」
後ろに気配を感じた。
「あ、春海。ニャーンがいる」
体をねじって振り向くと、首輪のないロシアンブルーがいた。
野良にしては毛並みがよすぎる。
夕日の赤みを帯びた光が、おでこや背中で反射している。
「おお、ほんとだ。かわいいな。おいでおいで」
「ニャーン」
猫はベンチに飛び乗り、志乃の膝で丸くなった。
「あなた達、何かつかんだようね」
お義姉さんの声だった。
周りを見渡しても、彼女の姿はない。
「私はここよ」
ロシアンブルーの猫パンチが僕の腿に入る。
志乃は「おねーさんだ」と面白がりながら、猫を撫でている。
「俺、今日はもう、猫はいいわ……」
なんだか疲れてしまった。
「何よ、高校生カップルと成人女性の三人組じゃ怪しまれるでしょ。私の粋な気遣いよ」
(あー、この気を遣えてない気遣いはお義姉さんだ)
「たぶん、神田さんを呪ってるのは上木さんです」
「あ、そう」
「淡泊な反応ですね」
「まあ、今回は狭い世間の話だしねぇ……」
「それは、そうですけど」
「ま、よくやってくれたわ。続きはまた考えましょ」
どうも釈然としない。
「お義姉さん、それはいいんですけど、学校にまで出てくるってどうなんですか」
「そうそう。ちょっとびっくりしたよ」
志乃は驚くというよりはしゃいでいた。
「私、行ってないわよ」
「でも、猫来ましたよ」
「どんな?」
「普通のキジトラでしたけど」
「ああ、なおさら私じゃないわ」
寒気がした。
「お義姉さん、俺――」
話すべきか迷った。
志乃が僕の肩に手を置いた。
「俺、猫が言ったことわかったんです」
お義姉さんは、猫の姿でNHKの猫の歌を歌った。
(この人も、受信料払ってたりするのかな……)
「まじめに聞いてください」
「え。そういうことじゃないの?」
「いえ、そういうボディーランゲージ的なものでわかるんじゃなくて、声で聞こえたんです」
「ああ、それが怖いと」
「正直、びびってますね。俺はただの人間ですよ。
ただでさえうっかり呪いが見えちゃって戸惑ってるんですから」
仕事の上では便利だけど、やっぱり一人でいるときに見えたらと思うと、怖い。
「あれは比率で言えばマイノリティなだけで、絶対数で言えばそう珍しいことじゃないのよ」
「うーん……」
どうもすっきりしなかった。
「俺、呪われてたりします?」
「もー、私が大丈夫って言ったじゃん」
「――と、志乃は言うんですけどね。あれです。セカンドオピニオンってやつで」
お義姉さんは僕の膝に移ると、体を伸ばして僕の肩に前足を置いた。
そのまま緑の瞳が、僕の目を見つめる。
しばらくそうしていたけど、お義姉さんは「うやぁん」と鳴いて志乃の膝に戻った。
「安心して。呪いは見えなかったわ。私の目は君や妹より確かよ」
「じゃあ、俺の異変は――」
「推移を見守りたい」
「都合のいいときは日本人なんですね」
「どうしても不安になったら私を呼びなさい。
私には昼も夜もないもの。私が起きたときが朝。寝るときが夜よ」
お義姉さんはそう言うと、植え込みに飛び込んでそのまま消えてしまった。
「春海、私もいるよ。役に立つかわからないけど」
志乃が僕の手を握る。
志乃の方が、自分の体が変わっていく感覚を知っているはずだ。
(こいつに気を遣わせてどうするんだよ……)
「ああ、すまん」
僕は立ち上がり、志乃の手を引いた。
「思い悩むのは、もっと奇ッ怪なことが起こるまで中断な」
「うんうん。帰ろ」
珍しく、手をつないで歩いた。
志乃はニヤニヤしている。
「どうした」
「んふふー。なかなかいいものですな!」
「じゃあ、毎日こうやって帰るか」
「うへへ。みんながいないときね!」
志乃はつないでいる手を前後にぶんぶん振った。
(知られてても、ラブいとこ見られるのは恥ずかしいんだな)
そのへんのさじ加減がよくわからん。
「じゃ、私は髪切って帰るから」
「結べる長さは残してもらえよ。おろしてると伸びたときにごまかしにくいからな」
「わかってるよう。じゃねー」
志乃を見送りながら、やっぱり心細かった。
夕方なのにまだまだ明るい。
9月はまだ夏だと思った。
―――――金曜・朝・学校―――――
教室に誰もいないのをいいことに、僕は宙で指を回す。
「なにしてんの?」
「お義姉さんが、今度は空中で円をかけって」
志乃は不思議そうに僕の動きを見ている。
僕だってこれで効果があるのか、半分は疑っている。
何もしないよりは不安じゃないから、そうしている。
切りっぱなしの志乃の髪が、肩口で揺れる。
「おお、切ったな」
「代わり映えしないけどねー」
彼女は毛先を指に巻き付けて言った。
気に入ってるんだか気に入らないんだからわからない。
「今日はおねーさんが見張ってくれるって。ニャーンの姿で」
「あの人、大丈夫かな」
「うーん……一応出て来ちゃいけない空気は読めるはず……と、思いたい」
校内でうっかり人間の姿に戻られたら面倒だ。
そろそろ誰か来る時間だ。
他のクラスの生徒が、廊下を通りすぎるのが見えた。
「志乃」
「んー?」
彼女が顔を上げたところで、短くキスをした。
「な、なんだよぅ」
「ここ数日してないような気がしてなー」
「うへへへへ」
「なんだよ、その笑いは」
「いやぁ、私もそう思ってたから」
「そうか」
にやけそうになるのを我慢して、口が歪んだ。
「そろそろ原稿出来上がっちゃうね」
文芸部の部室がある方角を眺めている。
「あー。俺らあんまり関係ないのに、そう思うと達成感あるな」
自分で入力した文書が冊子の形になると思うと感慨深い。
神田さんは、自分で作った話がそうなるんだから尚更だろう。
「この準備の手伝い終わったら志乃を撫で回したいな」
「犬猫扱いかよ」
「ああ、いや、性的な意味で」
「ヘンタイだー」
「へっへっへ。だから、まあ、がんばろうな」
「うん」
彼女は窓の外を眺めて、目を細めた。
―――――金曜・放課後・文芸部の部室―――――
三人で机を囲んで、それぞれ作業をする。
神田さんは相変わらず校正。
僕と志乃は、入力した原稿をプリントアウトして誤字脱字をチェックする。
「……はー」
「神田さんあんまり元気ないね」
上木さんの不登校記録が丸一週間をクリアして、二週間目に突入してしまった。
「さすがに滅入るよ」
何かを払うように頭を振る彼女の首に、蛇が巻き付いているのが見えた。
まだら模様が毒々しかった。
目を細めて見つめる僕を、志乃がつついて気を逸らそうとする。
――あやしまれちゃうよ。
――すまん。
アイコンタクトで、多分そんなことを伝えた気がする。
僕に見えたということは、志乃も見ているはずだ。
彼女の横顔の線が、かすかに震えているように見える。
被害者と思われる人物がすぐ目の前。
だけど、何の手出しもできない。
恐ろしく、また、もどかしい。
「ニャーン」
廊下にロシアンブルーが見えた。
情けないことに、それだけで力が抜けるほど安堵した。
「あ、猫」
神田さんは持っていた赤ペンをチッチッと振る。
この人も猫好きか。
お義姉さんは構わず廊下を行ったり来たりしている。
「あー、来てくれない……」
「どんまーい」
志乃は余裕の表情である。
(あれ、お義姉さんだしな)
廊下に人影が見えた。
体格はお義姉さんじゃなかった。
神田さんの手からペンが落ちる。
「上木――」
廊下に顔を向けているせいで、表情はわからない。
志乃が身構える。
廊下には、身を低くした猫がいる。
僕は――僕は、どうすればいい。
上木さんは、焦点の定まらない目で、顔だけ神田さんに向けていた。
「神田……なんであたしを一人にするの」
ひどく、恨めしい声だった。
「してない」
「嘘。避けてた」
ゆらりと扉をくぐり、部室に入ってくる。
とっくに見つかっているのに、追い詰められたと思った。
「なんで。なんでよ――」
「話せばわかる」なんて幻想だと思う。
話が通じる相手ではなくなっている。そう思った。
「あんたが邪魔するからでしょ!」
神田さんは明らかに苛立っていた。
「あたしは――あたしはあの時助けてあげたのに!」
上木さんは半分泣き叫んでいた。
半狂乱といってもいい状態だったけど、彼女が嘘をついているようには見えない。
どっちを信じたらいいのかわからなくなって、嫌な汗が吹き出てきた。
神田さんが苦しそうに体を折る。
彼女を覆う黒いものが、よりはっきり見える。
志乃は、それを泣きそうな顔で見ている。
――春海君、妹を連れて走って!
お義姉さんの声が頭に響いた。
相当大きな声だったのに、神田さんと上木さんは、その声に気づいていない。
志乃の手を引いてドアに向かって走った。
数メートルもないのに、遠く感じた。
志乃がつまづいて転ぶ。
志乃の足首に、ぬめぬめしたツタのようなものが巻き付いている。
「いって」と志乃の口が動いた。
頭の芯が沸騰する。
目の前が白くなって、総毛立つような感じがした。
「志乃に手ェ出すなああああああっ!」
そう叫んだような気がする。
夢中で手を振り回したような、覚えがある。
目の前で、ツタやアメーバが、黒カビが、虫やら何やらが弾かれたのを見た気がした。
猫が――お義姉さんが――僕らの前に躍り出て――――
僕はもう、目の前が真っ赤になって、嘔吐して倒れた。
**********
波の音がする。
あまり海に行ったことはない。
(小学生のうちは、家族で毎年行ってたっけ)
海水が足元に寄せては返す。
(冷たいな。今、満潮か? 干潮か?)
これから満潮になるなら、ここから動かなければ僕は溺死してしまう。
肘を使って、岸から離れようと這ってみる。
全身が痛い。
どれほど進んだかわからない。
なんとか体を転がして、仰向けになる。
目が開かない。
太陽が出ているのか、まぶたの中の僕の視界は真っ赤だ。
(ああ、さっき倒れたときみたいだな)
腹が減ったと思った。
夕方に吐いて、それっきりなのだ。
(今、何時だろう)
なぜ海にいるのかわからない。
時計を見たいけど、目が開かない。
――ニャーン。
また猫か。
波の音しかしない中で、心細くなっていた。
少し救われたような気になった。
――ニャーン。
声が近い。
耳元でふんふんと鼻息の音がする。
その音が離れると、猫は僕のわき腹を前足でこねはじめた。
(フミフミしても乳は出ないぞー)
今なら目を開けられそうな気がした。
まぶたを上げる。
(あー、この世の終わりみたいだ)
空が真っ赤だった。
太陽も月も星も雲もない。
なぜ「この世の終わり」だと思ったのかはわからない。
海と、赤い空間。
胎内のイメージかもしれない。
(それなら、この世の始まりのその前じゃないか)
ここはどこだろう。と、改めて思う。
指を動かして手元にあるものを握る。
(砂だ……)
猫は僕の顔の近くに来て、またふんふんと匂いを嗅ぐ。
(僕は何も持ってないよ)
撫でてやろうと顔を向ける。
まだ幼い三毛猫だった。
急に切なくなって、僕は奥歯を噛みながら泣いた。
どれくらい経ったのかわからない。
傾く日も、伸びる影もない。
繰り返すだけの波の音が秒針みたいに、時間が流れていることだけを示している。
三毛猫はずっと僕のそばで丸くなっていた。
一通り泣いて、気分が落ち着くと体を起こすことができた。
あぐらをかく僕の周りを、何か言いたそうに三毛猫はぐるぐる回る。
「ありがとな」
と、撫でようとすると猫はするりと避けてしまった。
(まあ、猫にはよくあることだよな)
僕はあまり気にせず、トライ・アンド・エラーを繰り返す。
そうしているうち、女の声が聞こえてきた。
とても親しんだ声だ。
これは誰の声だったか。
――はるみ。
なんだそれは。
――はるみ。おきて。
それは、名前か。
――春海。ねえ。
それは、誰のことだったか。
僕は、上を向いて考える。
(僕のことかもしれない)
「しの」
志乃。
あいつは無事か。
自分がどういう状況に置かれていたか思い出した。
猫が前足を僕の脚にのせる。
「心配してくれるのか」
さっきからずっと一緒にいてくれたのだ。
犬猫は人間が思うより共感する能力があるのだと思う。
もう一度声をかけようと口を開くと――
――七代祟ル
そう言って猫は、僕の腹に飛び込んで、そのまま消えてしまった。
**********
恐ろしくなって、悲鳴をあげそうになったところで、赤い空は見覚えのある天井になった。
急に体を起こしていたらしく、頭がぐらりとした。
「春海!」
志乃が僕に抱きつく。
僕は頭を押さえながら、もう片方の手で志乃を抱く。
「ちょっと揺らさんでくれ。頭痛い……」
「あっ、ごめん」
志乃が僕からそっと離れる。
動くとズキズキする。
「大丈夫か」
「うん。守ってもらったからね」
彼女はそう言いながら、宙で指を回す。
自分の右手を見る。
指輪がなかった。
その代わり、小さな傷がいくつか残っていた。
「志乃、ここは」
「事務所の休憩室だよ」
(ナオミの部屋とは言わないんだな)
まあ、あまり口にはしたくない勤務先名だよな。
「呪いなら大丈夫。おねーさんが始末したよ」
「あの二人、どうなった?」
「無事かどうかで言えば無事だけど――」
「関係がどうなるかは微妙ってことか」
「うん」
志乃は視線を落とした。
ふすまが開く。
「義弟、大丈夫?」
「ええ、なんとか」
(怖い夢見たって言った方がいいのかな)
お義姉さんは僕の側に腰を下ろした。
「あ、でもすげー頭痛いです」
「ごめんなさい。声を出すより、直接頭に語りかけるほうが早くて――」
「人間相手だと、やっぱり無理がくるのね」と、お義姉さんはため息をついた。
「いいんですよ。俺たち無事ですし」
急に静かになってしまった。
「すみません、指輪壊してしまったみたいで」
この間が気まずいような気がして、指輪のことを詫びた。
「いえ、いいのよ。まさか完成してたなんて思わなかった」
「完成っていうか――俺にもよくわからなくて。とにかく必死だったんで」
「春海がんばったんだよ。こう、丸い線の光が出て、レンズみたいに膨らんでさ」
志乃が身振り手振りを交えて説明してくれるが、よくわからない。
「まあ、無事でよかったよ」
志乃は僕に抱きつこうとしたけど、遠慮したのか手を握って頬に寄せた。
「お義姉さん、なんで円だったんですか?」
お義姉さんの手前、照れくさいので真面目っぽい話題を振った。
「円って、シンプルすぎて嘗められがちだけど、実はありがたい形なのよ」
その意味するところは、命の源である太陽、卵といったものも含まれるらしい。
「でも、私は意味を教えてないわよ。自力でその理解に至ってくれたのならすごいけど」
「いえ、俺は今知りましたよ」
「なにそれ。春海すごい」
「ああ、己の才能がこわい」
「義弟、あの瞬間何を考えたの?」
「えっと……」
あまり思い出したくない光景だ。
あのとき、凝縮された一瞬の間に思ったのは何だったか。
(一発やらずに死ねるか)
なぜか同時に志乃のおっぱいが思い出された。
「おっぱい……」
「はぁ?」
志乃がアヒルのような形で口を開けている。
多分あきれて閉まらないのだろう。
「あ、いや」
言い訳がましく手を振るけど、もうごまかせない。
「君はそれだけで生存本能の最も深いところにアクセスしたっていうの?」
「そんなすごいことなんですかね。あ、でも火事場の馬鹿力ならそんなんかもしれないです」
「性と生は切っても切れないから……」
お義姉さんは、無理矢理自分を納得させようとしているようだ。
「でも、性的欲求だけでそこに至れるかしら……」
「あの、とりあえず無事に帰れたことですし、そこ悩むの置いときません?」
「なんだか屈辱だわ……」
そうぼやきながら、お義姉さんは僕に新しい指輪をくれた。
――――――
夜になると、お義姉さんは繁華街に出かけてしまった。
頭痛は軽減したものの、まだ動くと吐きそうだ。
「志乃、帰っていいよ。俺泊まるわ」
生きて家にたどり着ける自信がない。
「ぬー、あたしもお泊まりんぐー」
志乃が畳の上を転がりながら寄ってきた。
「俺、元気ないから今夜は何もできないぞ」
「いいじゃん。何もしなくて。私が帰ったらあんた寂しいでしょ」
「断言されると否定したくなるな」
「じゃ、私は帰るよ。一人でも平気でしょ」
「そう言われると悲しくなるな」
「はじめからそう言えばいいのに」
「うるせー。たまには天の邪鬼したくなるんだよ」
「男のツンデレはかわいくないぞ。烈さんくらいじゃないと」
「俺がいつツンデレになったよ」
頭は痛いし気分も悪いけど、横になってどうでもいいことを喋っていると気が楽だ。
「――やっぱり、居てもらったほうがよさそうだな」
「あ、デレた」
志乃は、にっと笑った。
「春海、ひどい夢見てたんじゃない」
志乃が布団に入ってくる。
「なんで」
「うなされてたから」
体調の悪い僕に遠慮しているのか、抱きついてこない。
「……」
「嘘はつけないぞ。ちょっとくらいの異変なら私にも見抜ける」
僕には、彼女を心配させまいと気を遣って悪夢を隠すことも許されていないようだ。
「いや、猫がな」
速攻で観念した。
「またニャーン?」
「海と、朝焼けだか夕焼けだか――
空には何もないんだけどな、赤いところで、すごい寂しいところで倒れてた」
残念なことに、不吉なイメージを僕ははっきり覚えていた。
「それで、三毛の子猫が慰めてくれるんだけど」
「子ニャーン?」
並んで寝ころんだ志乃が、猫の手を作って空中に伸ばし、空気をかきまぜる。
「目が覚める直前に『七代祟る』っつって俺に飛び込んで消えた」
「うええ、こわー」
「な。怖いよな」
「ほらー、やっぱり私がここに残ってよかったじゃーん」
「そうだな」とは言えなかった。
言えない代わりに、痛みを振り切るように体を動かして志乃を抱いた。
「な、なに!いきなり!」
相変わらず突発的に触られると固まるようだ。
「あんまり大声出すなよ。頭に響く」
「すまぬ」
「志乃、居てほしい。居てくれ」
「さっきから居るって言ってるのにー」
「ちゃんと頼みたくなったんだよ」
「ほう」
「デレてるんだから喜べよ」
「わぁい」
「心こもってねえなー」
彼女と話して、少しずつ平常心に戻ってきた。
怯えを一旦心の隅に置くことができるくらいには、僕は落ち着いていた。
「俺、明日お義姉さんに相談してみるわ」
「うん」
志乃がうなずく。喜んでいるようだった。
「そうでなきゃ、お前泣きながらお義姉さんに依頼しろって言ってくるだろうしな」
「依頼しろとは言うだろうけど、泣きはしない」
(いーや、泣くね)
あえて言うまい。
「俺は薬局に行くぞ、志乃」
「痛止め要る?この時間は閉まってるよ」
志乃は僕から離れて、鞄を探る。
「運が良かったな。私のが余ってた」
少しくたびれたパッケージを僕の側に置く。
「お水くんでくるー」
立ち上がろうとする志乃の手首を掴んで止める。
「いいよ。痛みのピーク過ぎて飲んでも効きにくいし」
「そうか」
「まあ、その、コンビニでもいいというか」
「?」
「俺はこないだ長野と話していて思いました」
「ああ、円の書き方教えてもらってたよね」
「それもだけどな。やっぱり愛と責任ある性交をせねばなりません」
志乃が吹き出す。
「笑うなよ」
「わ、笑ってなどいない。うろたえたんだ」
彼女はきまり悪そうに体を動かす。
「真面目に聞けよ。真面目に考えたんだから」
「あ、あー。そのことなんだけどさ」
もじもじそわそわ。
「どうした」
「しばらくは困らなくていいよ」
「え?」
志乃はタンスを開けて、何やら箱を取り出した。
「ででーん」
と、僕に差し出す。
――業務用――
「ナニコレ」
「もらったったwwwww」
「いやいやいやいや。業務用て」
こんなものにも業務用があるのか。
「おねーさんに相談したらくれた」
「何考えてんだよあの人は!」
別の意味で頭が痛くなってきた。
「呼んだ?」
口の横に血糊をつけたお義姉さんが、部屋の真ん中に立っていた。
食事中だったようだ。
「呼んでません!なんなんですかあなた!もう!」
「私は妹を助けただけよ」
彼女は腕を組んであごを上げ、僕を見下す。
「だからって業務用はないでしょう!」
「いいじゃない。これでしばらくは持つわよ」
「しばらくって何ですか!」
「しばらくはしばらくよ。ペースにもよるわね」
「もう!ペースとか!もう!もう!」
いろいろとブッ飛んでてツッコミが間に合わない。
「特に用もないみたいだし、私は食事に戻るわ」
お義姉さんは踵を返す。
「……がんば!」
と、お義姉さんは親指を立てて消えた。
休憩室に残った僕と志乃。
あと、業務用コンドーム。
「……気まずぅー」
志乃が舌を出す。
お気持ちは嬉しいんですが……こういうんじゃないんだよなー……。
「こういうんじゃないんだよなー……」
思ったことが口から漏れていた。
「確かに……ちょっと違うよね」
志乃がうなだれ、扱いに困った。という風に箱に目を遣る。
「どうするよ、これ」
「どうするって……ああー……」
部屋の真ん中に鎮座する、殺傷力のない爆発物。
「使うしかないんじゃないかなぁ」
志乃が棒読みで答えた。
「何だね、その他人事のような口振りは」
「快く受け取っちゃった手前、気まずいんだもん」
「一旦片づけようか、それ。気になって仕方ない」
「ああ、うん」
僕の目の前から、しばしの別れだ。業務用。
志乃が布団に戻る。
「寝よ寝よ!」
「寝れん!」
テンションをニュートラルに戻してほしい。
「えー。さっきまで寝そうな感じだったじゃん」
「そんなもん露と消えたわ」
「もー。どうしろと言うんだ。エロいのはナシだぞ」
「エロいことを要求する気力も体力もない」
「あー……」
「だから今日は、おとなしくポツポツ喋ってようぜ。眠くなるまで」
「それいいかも。話題が尽きてしりとりしたりしてさ」
「で、『る』でハメられてムキになるんだよな」
「それは反則だ」
志乃が僕に布団を掛け直す。
「修学旅行の夜みたいだね」
「やっぱり女子って好きな人告白大会とかやってたの?」
「やったやった。そのときは好きな人いなくて困った」
ああ、この会話の取るに足らない感じがちょうどいい。
「いないって言うと、ありえないって言われるんだよね。
しょーがないから、かっこいいと思う人を挙げるってことで許してもらった」
「めんどくせぇなー、女子って」
「あれ、なんなんだろね」
「なんだろなー……」
最後に話した話のタネも朧気になったところで、僕は眠ったらしい。
夢と自覚できる夢の中。
――ニャーン。
声だけで、あの子猫だと判別できる。
お義姉さんの、次の依頼人は僕だ。
そう確信しながら、僕はさらに深く眠った。
テーマ : ライトノベル
ジャンル : 小説・文学