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男「目が覚めたら幼馴染がまたがってた」






こんな夢を見た。

朝、重みを感じて目を開けると、幼馴染の桜子が俺にまたがっていた。
出勤途中なのか、スーツをきちんと着込んで、化粧をしている。

(そういえば就職したって言ってたな)

「あっ、ごめんね駆。起こしちゃった?」

起こしに来たんじゃないのか、と寝ぼけた頭で考える。
仰向けに寝ている俺の腰に座り込んだ桜子。

頭を持ち上げると、めくれたスカートの奥が見えた。
あるべきものがなかった。
桜子、パンツはいてない。
俺もなぜかパンツはいてない。

(これ、入ってるよね)

寝起きで喉が渇いたのと混乱で声が出ない。

「い、いいよ。駆は、寝てて」

(うーん、ありえん)

物理的にはありうることだが、桜子がいきなりこうなるのは飛躍しすぎている。

「ゆめだ」

数日ほったらかしにしたままの、無精ひげの生えたあごを桜子が舐める。

「やだぁ。ざらざらしてるぅ」

「お前、どうした」

「わかんない、わかんないよぅ」

桜子は頭を振って甘えた声を出す。
お互いまんざらでもなかったが、いや、俺は相当惚れ込んでいたが、桜子がこうなる理由がわからない。

「ゆめだ」

「夢?」

明晰夢というやつだろう。
滅多に見ないが、全く見ないわけじゃない。

「これは夢だろ」

「うんっ、なんでもいいっ」

胸に置かれた手に力が入り、爪が刺さる。

「いてえ」

桜子は聞かずに腰を使う。

十に満たない頃からの付き合いだった。
ずっと「いいとこのお嬢さん」だった。
心の優しい、雰囲気の柔らかい子だった。
保健体育の二次性徴の単元のテストなんか、恥ずかしくて回答が書けずに赤点を取った。

その桜子が、俺を夜這いに来るわけがない。
これは夢だ。

(夢なら堪能しよう)

桜子の腰をつかんで、仰向けに転がす。
驚いたようだが気にしない。
そのまま行為を続ける。
太ももに赤いものが見えたが、本人が痛がらないので気にしない。
そういう夢だ。

「駆、たすけて」

「嫌か」

自分で襲っておいて、嫌も何もないだろう。

「ちがうの。してもらわないと、あたし、だめになる」

(なんだそれは)

考えても無駄なようだった。
俺の目が覚めないうちに、夢が覚めないうちに、

「だして」

と、桜子の口が動いたような気がした。
避妊のことなんか微塵も考えずに注ぎ込む。

桜子は口元で少し笑うと、失神した。
俺も満足したので、眠りの中の眠りに入った。

今度こそ目が覚めたら、幼馴染の桜子が横で眠っていた。
俺は下半身丸出しだった。

「ああああちょっと待てちょっと待てちょっと待て!」

桜子がだるそうに体を起こす。
夢と同じスーツを着ていた。
化粧が汗で崩れている。

「あっ、ごめんね駆。勝手にお邪魔して」

「もっと言うことあるだろ」

「あ、ああ、これは――だめぇ、恥ずかしい」

桜子は布団を被って部屋の隅に逃げた。

「あたしにもわからないんだもん。夢見てるみたいだった」

「夢か」

「夢です」

「こんな夢を見た」

「百年待ったの?」

「違う。夢だけど夢じゃなかった」

「うん。あたしがここに来て、その、アレして、ここにいるのは現実」

「なんていうか、すまん」

「駆は謝らないで。おかしくなってたなりに、自分で考えて来たんだから」

「今は正気なのか」

「正気……なのかな? 今は何ともないよ」

「つまりお前は、朦朧として、強烈な催淫状態にあったと」

「きっぱり言わないでよ。恥ずかしいよ」

桜子は、敷布団のそばに落ちていた下着をつま先で拾って手の中に隠した。

「今更だろうが。変な薬でもやってない限り、そうはならんだろう。変わったことはなかったか」

「そういえば変な花が咲いてた」

「変な、とはえらく主観的な表現だな」

「えっとね、大きさはこれくらいでー」

両手を広げてみせる。
直径にして、150~160センチといったところか。

「でね、そばを通ったら変なにおいした」

その大きさで、桜子のような症状を引き起こす植物。
知っていた。

「発酵したような、そうだな。チーズみたいな匂いがしただろう」

「あ、そんなだったかも。駆の知ってる花?」

言うまでもない。俺は植物学者だ。

「心当たりはあるが、この国に自生することはない」

「でも公園に咲いてたよ」

「公園とはまたローカルなところに咲いたな」

「ほんとだよ。ここに来る途中で近所の人が噂してたもん。
 今頃テレビ来てたりして」

桜子に促されてテレビをつける。

「あれ、うつらないね」

抜いていたコンセントをさしても番組がうつらない。

「おかしいな。壊れたか?」
「駆、こっちに帰ってからテレビつけた?」

「いや、今が初めてだな」

「駆が旅してる間に、地デジ化したんだよ」

「なんだそりゃ」

「駆のテレビはうつらないの」

「そんな、いいのか。国民はだまってないだろ」

「だからそうならないように、ずっと前から地デジ化するってテレビでも言ってたの」

「俺は見てないぞ」

「だって駆テレビ見ないんだもん」

「なんてことだ……」

ラジオは研究室に置きっぱなしだ。
このアパートにも、数日おきにしか帰らない。
新聞は大学の図書館で読む。

「あたしの携帯ならワンセグついてるから。こっちで見ようよ」

桜子が鞄から携帯を出して、アンテナを伸ばす。

「ほら、見て。この公園」

桜子が体を寄せて俺に画面を見せる。
いい匂いがした。
スーツのしわを気にして座る様子を見て、すまなかったと思う。

小さな画面の中に、桜子の言っていた公園が映っていた。
清楚なイメージで売りたそうなファッションの女子アナがレポートに来ている。

(嫌な予感がする……)

――突如、発生したこの謎の植物。今日はその発生場所に来ています。

まだ、桜子みたいになった人が出たという情報が入っていないんだろう。
能天気な笑顔だ。

――これは、花、花なんでしょうか。茎はなく、地面に巨大な二枚の葉が張り付いているようです。

誰かが死んだわけでもないし、悲惨な事件もまだ起こってない。
棒を回すのが上手な熊や多摩川のアザラシでもレポートするノリだ。

俺の知っていることが本当なら、ろくでもないことが起こる。

「そうそう。これ、砂場の真ん中にでーんって生えてたの」

「二度とあれに近づくなよ。女は特にまずいんだ」

これから起こるであろう事態を予測して、桜子に見せていいのか気にかかる。

――外見もさることながら、独特の香りというんでしょうか。乳製品のようなにおいがします。

「あっ、馬鹿嗅ぐな――」

「じゃあ、この人は」

ナレーターがうつむき、スカートのすそを握る。
こんなに早く症状が出るものなのか。

「お前は見ないほうがいい」

「えっ」

――突然ですが、私は男の人が欲しいんですね。

画面の中の彼女は、表情をとろけさせてカメラに向かって宣言する。

――通勤時間も過ぎ、人通りが少ないのは仕方ないのですが、栓をしてくれる人がいないのはおかしいですね。

「何言ってるんですか!」「カメラ止めろ!」と、スタッフの狼狽する声が入る。

――カメラさん、音声さん、あなたたち男の人ですよね。

スカートをつかんでいた彼女の指が、裾から中に入っていく。
そこでカメラを構えていたであろう男は、奇妙な花だけを映すことに決めたらしい。
ねっとりした女の声だけが花の映像のバックに聞こえる。

――男の人ってことは、いいものを持ってるってことですよね。

画面が激しくぶれて空が映った。
カメラの男が倒されたらしい。

――ひゃあはははは! がんばって元気にさせててくださいねぇ!
私が満足するまで萎えさせちゃらめでしゅよぉ!

地面に落ちたらしいカメラが、狂ったように笑う女の顔を見上げていた。
こんなの、どんな美人でも萎える。

やっと、せせらぎの映像と「放送事故起こしてすみませんでした」的なテロップが流れる。
その背後では、パニックになった現場がうまく機材を操作できていないのか、音声が拾われ続けていた。

「あの、駆……もう消していいよね」

桜子が気まずそうに携帯のアンテナをしまう。

「なんてことだ……なんてことだ……」

まさかここまで即効性があり、激しく症状を引き起こすとは思わなかった。

「……ね、私、この花の近くを通ったの」

「お前、フェルビッチアの毒にあてられてよくここまで来れたな。直接嗅いだら理性がぶっちぎれる代物だぞ」

桜子がまだ実家暮らしなら、電車を乗り継いでこのアパートまで30分から1時間はかかる。
誘惑は多かったはずだ。
誘惑どころじゃない。
やらなきゃ死ぬところまで追いつめられていたはずだ。

「奇想天外?」

もっともこの毒は、一旦性交渉を持てば症状はほとんど緩解する。
桜子も今はまともに会話ができるようになっている。

「違う。ウェルウィッチアじゃない。フェルビッチアだ。非常に強い毒性を持つ。症状はあのとおりだ」

「頭がおかしくなりそうで、死ぬかと思ったの」

「ああ、放っておいたらホルモン分泌過剰で死に至ることもある。原生地の部族は、男が狩りで出払う間、妻たちのために性具をお守りとして置いて行くんだ」

だから桜子は「たすけて」と言ったのだ。

「俺は出かけるが、大丈夫だな」

桜子は不安そうにうなずく。

「行って。駆が行かなきゃ、もっとひどいことになるよ」

「お前はここにいろ。離れていれば心配ないが、花粉を飛ばさないとも限らないからな」

「あたし、仕事休む……」

「そうした方がいい。気に病むことはない」

事態が収束するまで、この町の女は家から出られなくなる。

「体を洗いたければ、風呂を使っていいからな」

玄関で靴を履きながら、自分もシャワーを浴びればよかったと思い出す。

「じゃあ、いってくる」

「いってらっしゃい」

寂しそうな声だった。

道中で保健所に電話する。

「ニュースで見ただろうが、あの花を放置すると厄介なことになる。
できるだけ人員をよこしてくれ。女は中毒を起こす。男じゃないとだめだ」

調査から帰ってきて間がない。
鞄の中にはサンプルをとる道具が揃っている。
サンプルがあれば毒を抽出できる。
毒があれば解毒剤が作れる。

(そしたら助成金や報奨金で金の心配がなくなる)

俺の頭脳も捨てたもんじゃないが、金を稼ぐことに頭は回らなかった。
現状、たまに給料日前にカツカツになるくらいで衣食住には困ってないし、研究費で好きなところへ調査に行ける。
日本に帰れば桜子がいる。
たまに育った施設に行けば、先生やチビどもが喜んで迎えてくれる。
まだ依頼は少ないが、講師でも引き受ければちょっとした額になる。
自分ひとり生かすくらいなら十分だった。

桜子はきれいに育った。
帰ってきて、会ったときに「おかえり」と迎えられるのが好きだった。
これが自分の家ならいいと思った。

だから、足りなくなった。
ある程度の社会的地位と金が必要になった。

俺は植物学、特に薬草学の界隈では名を知られつつある。
主要な研究機関とのパイプも、少ないながら持つことができた。
コネを作るのは面倒で煩わしいが、何かと便利だということも学習した。
次はわかりやすい箔をつけたかった。

「思ったより早かったな」

公園は封鎖されていた。
出入り口は黄色いテープが張られ、砂場には青いビニールシートがかかっている。

(殺人現場じゃないんだから……)

踏み入れると、大げさなマスクと防護服を身に着けた職員が何人か立っていた。
そのうちの一人は、時折シートの端を持ち上げて中をのぞき込んでは、首を横に振る。
どうしたものか途方に暮れているらしい。

「状況は?」

テープをまたいで公園内に入る。
たまたま近くにいた職員に、紹介状を見せながら声をかけた。

――俺を行かせてください。俺は役に立つ。
――君の能力は買うが、どうも言葉がついてこないことがあるな。

師事した教授に何度も言われた。
仕方がないので、紹介状とかいうものを書いてくれた。
何をするにも所属や役職がないと信用されるまで時間がかかる。
話すら聞いてもらえないこともある。

「通報してきたのはあんたか。思ったより随分若いな」

「歳はどうだっていいだろう。見せてもらってもいいか」

「好きにしろ」

シートを持ち上げてもぐりこむ。
職員の一人があわてて俺にマスクを差し出した。
遠慮してもよかったが、まずはサンプルの採取だ。

実物は話で聞くよりグロテスクだった。

まず、外観を確認する前に独特の臭気が鼻をついた。
桜子にはチーズにたとえて説明したが、それよりもっときつい。
いきすぎた発酵臭だった。
昨晩、居酒屋で飲み食いしたものが小腸あたりからでも逆流しそうだった。

(マスクは大げさじゃなかったな)

男には耐えがたいのだ。
毒は女に作用する。
女にはもっとマイルドに感じられるのかもしれない。

(帰ったら桜子に聞いてみよう)

職員の好意に甘えてマスクをつける。
吐き気をこらえながら観察する。

(これは……似てるのは名前だけじゃないな)

地表に出ている部分は、ウェルウィッチア(奇想天外)とよく似た構造をしていた。
奇想天外はアフリカの砂漠に分布する。
そして短い茎から二枚の葉を伸ばし続ける。
その葉は葉脈に沿って裂けやすく、先端を枯らしながら成長する。
茎の中央部から細かい枝を出し、雄花序と雌花序をつける。
根の長さは地中10メートルにも達すると言われる。

(俺は10メートルあってほしい。その方が訳がわからなくて面白いから)

一方、フェルビッチアの葉は肉厚で、裂けることなく成長する。
伸びるというよりは、肥大化するといった方が適切かもしれない。

裂けることも枯れることもなく成長しきった葉のふちは、赤褐色から紫色を呈する。
雄花序は作らず、雌花序のみで増殖する。
フェルビッチアには雌花序しかないが、単性生殖ではない。
動物の精子を栄養にして種子を作る。

その精子を運んでくるのは女だ。
だからフェルビッチアの毒に中てられた女は桜子や今朝のレポーターみたいになる。

外観と生殖方法しか明らかになっていない。
それがフェルビッチアだった。
それがなぜ日本に、一夜にして成長した姿で現れたのかわからない。

(だめだ、この臭いは目にくる……)

赤くつやのある茎の中央部を少し削ってサンプルとした。

「まだ花粉を飛ばすことはないが、ここまで大きくなってるとまずいな」

「まずいか」

「半径1kmに屋内避難命令を出して焼却」

「俺にも娘がいる。助けてくれ」

「そのために俺が来た」

(あのときの桜子の親父さんと同じ目だ)

サンプルは採取した。
焼却するように伝えた。

「地中の根を残すと再生する可能性がある。重機で掘り返して徹底的にやるんだ」

男はまだ指示が出せないでいた。

(なぜだ?やるべきことは伝えたのに)

「娘が心配か」

俺が若すぎることなんか関係ない。
詰め込んできた知識と足で稼いだ経験は本物だ。

男の視線が揺れる。

(誰が言えば信用するんだ)

「おい、おっさん」

男が俺を見る。
マスクから上、目と眉でしかわからないが、表情に険がある。
俺の物言いが気に入らなかったようだが、話ができればいい。

「おっさん、娘はいくつだ」

「まだ10歳だ……嫁さんの体が弱くて、やっと授かったのを」

その情報を訊きたいわけじゃない。

「初潮は?」

「てめえ、人の娘にーー」

「俺が下世話な興味で訊いてるわけないだろう。事実だけ答えてくれ」

「まだきてないはずだ」

「なら大丈夫だ。そこまで体ができてないなら毒も作用しない」

男の眉が歪む。
安堵か疑いか。

「油断するなよ。子供だろうが、月経があれば症状は出る」

「まだ子供でも、か」

「子供だからこそ気を付けてやるんだ。毒は内分泌系に働きかける。
性ホルモンの分泌異常が起こるんだ。影響を受けて初潮が起こってもおかしくない」

発作で亡くなった少女の話を読んだ。
膣に裂傷を負って、感染症を起こしたのが原因だった。
生きていても精神的に深い傷を負ったままになる。
乗り越えられず、命を絶った娘もいたそうだ。

――という話をした。

「避難命令を出すのは、1km圏内でいいのか」

やる気になってくれたらしい。
男の目には力がこもったままだが、きつさは抜けている。

「それでいい。万が一ほかの個体が見つかったら、同様に対処してくれ」

「女の一人暮らしも少なくないが。彼女たちは買い物にも行けないのか。仕事はどうする」

「食料は配達でもしてやればいい。仕事はどうせ回らなくなる。
各事業所には強制的に休みを取らせるよう命令しろ。それができるのが行政だろ」

「すでに感染――感染という言葉が適当なのかはわからないが――
その、症状の出た女性にはどう対処する」

「現在確認されたのは?」

「お前も見ただろう。あのレポーターの子一人だ」

かわいそうに、と男は低くつぶやいた。

(と、桜子か)

男にサンプルの入ったケースを見せた。

「さっきサンプルを取らせてもらった。毒が解析できれば手も打てる。今は被害が拡大しないように協力してくれ。俺も力になる」

マスクのせいで息苦しい。
男は疲れたらしく、深くうなだれた。
頭を下げてくれたようだった。

俺は公園をあとにした。

歩きながら思い出す。

小学校に入って、参観日、運動会その他諸々の行事が何度か過ぎた頃だった。
所長は忙しい。
そのうち、俺の「家」に誰も行ったことがないという話が出てきた。

ある日、意地の悪かった男子が話しかけてきた。
特に何かをされたことはないが、こいつのことは良く思っていなかった。

「お前、親いないんだって?」

今思えば、あれを気色悪い笑顔というんだろう。
七つか八つの子供でも、ああいう顔はできるのだ。

「うん」

事実だったから肯定した。
俺もガキだった。
「お前には関係ない」と突っぱねることを知らなかった。

それから、そいつの取り巻きは、たまに俺にちょっかいを出してきた。
気の弱い子供は、こわばった顔をしていた。
俺は簡単に孤立した。
そういうものか、と思った。

桜子は違った。

「駆君は悪くない! あたし知ってるよ! こういうの『へんけん』っていうんだよね!」

「偏見」という言葉が出る文脈の会話でなかったことは覚えている。
俺のことを誇大して嘘を織り交ぜて悪く言うやつもいたから、それが桜子にそう言わせたのかもしれない。

俺には親がいない。
所長が言うには、冬の夜、施設の前に置かれていたそうだ。

俺はいいやつじゃないけど、悪いやつでもないと思う。

俺が『ふつう』に育ったのは、施設の所長の人柄に恵まれ、共に育ったアホでかわいいチビどもに恵まれたからだ。

何より、俺にはグレたりひねくれたりしてる暇なんてなかった。
俺が字を読めるようになった頃、所長は俺に本を与えた。
何だって記憶できた。
物語は頭の中にある。

でも、読んでもらうのは好きだった。

桜子と親しくなったのは、十歳になる前の初夏だった。
あのおっさんの娘と同じ年の頃だ。
当時、桜子とは同級生だった。
遠足で行った山で遭難した。
歩いていると、桜子がいなくなったから探しに行った。
ミイラ取りがミイラになった。

桜子は俺を含むいろんな人に謝りながら泣いていた。
手の中に握った花がしおれていた。

「泣くな。消耗するといいことがない」

「『しょうもう』って?」

「疲れるってことだ。いいか。俺たちは遭難した。下手に動くと状況は悪くなる」

「うっ……」

「泣くな。みんなお前がいないことに気付いてる。助けが来る」

「いつ?」

「わからないけど、絶対来る」

夕方前の帰り道で、食料はなかった。
周囲には植物があった。
食用に適したもの、毒性のあるもの。
知識はあった。実物を目にするのは初めてだった。

「ねえ、これは食べられる?」

俺には親がいないけど、桜子にはいる。
食べられそうなものを、毒見して桜子に与えた。

「食え。本来は生食に向かないから、青臭いが毒はない」

「ほんとだ。あんまりおいしくないね……」

「飢えるよりマシだ。飲み込め」

退屈しのぎに、覚えていた話を聞かせた。
自分のことを話すわけじゃないのに、少し緊張した。

「駆君、なんでいろんなこと知ってるの?」

「本で読んだ」

「覚えてられるんだ。すごいね。テストいつも100点だもんね」

「そうだ。俺は頭がいい。お前も落ち着けばこの状況に対処できる」

「できるかな」

「できる。絶対無事に帰してやる」

「いつもは『絶対』なんて言葉、根拠がないって嫌ってるのに」

「俺がやると言ったらやる。お前は助かる」

そのときの俺は子供だった。
体が出来上がってないし、力も弱かった。
でも、本で得た知識はあった。
所長が知り合いの大学教授に会わせてくれて、専門書に触れる機会もあった。

新しい知識がつながって、自分の世界と結びついたとき、何かが開けるような感覚があった。
それが俺の喜びだった。

施設の外の人間にはあまり興味を持たなかったが、初めての友達は守ろうと思った。

少し落ち着いたように見えたところで、桜子が手を痛がりだした。

「見せろ」

「大丈夫だよ」

小指が1.5倍くらいに腫れて、関節のしわがなくなっていた。
内出血のせいか関節が紫色になっている。

「転んだときに突いちゃったみたい」

桜子はその指を曲げようとして、痛みに声を出した。

「動かすなよ。それ多分、骨いってる」

「うええ、やだあ」

小学生にとって「骨折」とは実際以上に危険な響きをもつ。
だから、たまにギプスをつけて登校するやつが出ると、ちょっとしたヒーローになる。

「痛いだろうが、動かさなければ治る。ちゃんと使えるようになるからびびるな」

軽く曲げた状態(それ以上伸ばせないし曲げられない)で簡単な添え木をあててやった。

「これだけでいいの?」

「医者なら痛み止めや炎症を抑える薬を出すんだろうが、ここにはない」

「山だもんね……」

「どの程度効くかはわからんが、薬草を探してくる」

「ドラクエのあれ?」

一瞬、桜子の目が輝いた。
何か誤解している。

「なんだそりゃ」

「ゲーム」

「すまんな。俺はそっちのことはよく知らない」

「そっか」

(なぜがっかりする)

「どうやら万能薬みたいなものを考えてるようだが、そんなものはない」

少なくとも俺は知らない。

「でも、抗炎症作用を持つものや消毒作用をもつものはある」

「ほんと? すごいね、げんじつの葉っぱ」

「だから面白いんだ」

「明るくなったら探してきてやる。我慢できるか」

「我慢する」

桜子は唇を噛んだ。
涙のあとが頬で渇いてかさついている。
そばの沢で顔を洗うようにすすめた。

「ここ、どこなんだろうね」

「さあな。少し転げ落ちたから、道からは外れてる。俺も冷静じゃなかった。どうやって来たか覚えてないんだ。すまん」

「ごめんね」

「いいんだ。今度は覚えておく」

「遭難はもうやだなぁ」

苦笑する桜子を見て、大丈夫だと思った。

「今日はもう寝ろ」

「うん」

桜子の眠った後、気分が悪くなってきた。
口にした中に毒のあるものがあったらしい。

(少し飲み込んだか……)

思い当たるものはある。
口内の粘膜を刺すような刺激を感じたから、桜子には与えなかったものがある。

(あいつは無事か)

沢の水を飲んでは戻した。
止まったと思ったら、目がかすんで寒くなった。
岩に体を預けて呼吸をするのが精一杯だった。

(これが中毒か)

生まれて初めて怖いと思った。
桜子のそばに戻りたくなったけど、足がもつれてへたりこんだ、

(助けてくれ)

死にたくないと思った。
喉の炎症がひどく、声が出ない。
頭の中で桜子が俺を呼ぶ声がする。

そこで俺は一度死んだ。

――――――――――

「はー、こりゃあえらい小さなお客さんですのう」

方言のきついじいさんの声だった。
もう苦しくなかった。
何かを煎じている匂いが漂っていた。

「目ぇ開けてつかあさいや。あなたぁ死にましたからな、もう苦しゅうもなんともないですわ」

台所から俺に向かって呼びかけているらしい。
声がでかい。

「うるせえ……」

「ひゃひゃひゃ。すみませんのう。わしゃ歳ですからな、耳が遠いんですわ」

(聞こえてんじゃねえか)

一瞬、目の開け方がわからなかった。
身体感覚がマヒしていたらしい。

むき出しの梁が見える。
裸電球がぶら下がっている。

(どこの小屋だ?)

「おほほほ。駆さん、わしゃあね、全部見よったんですわ」

「見てた?」

「わしね、神さん」

(なんだ、ほら吹きのじいさんか)

元気なミイラみたいなじいさんだった。
悪人ではなさそうだった。
治療を受けたようで、体は楽になっていた。

体を起こして、小屋を見回した。
壁には束になった薬草らしきものがぶら下がっている。
干して使うらしい。
じいさんは背負っていたかごをおろした。

「あ――ありがとうございます」

じいさんは、あぐらをかいた俺のそばに腰を下ろして、俺の顔をのぞきこんだ。
嫌な感じはしなかった。

「あなたぁ子供じゃけど、物をよう知っとる。大したもんですわ」

(いつから見てたんだ?)

「でもね、ありゃあ無理しすぎですわ」

「桜子を無事に帰すためだ。あいつには家族がいる」

「駆さんにも、おるでしょう。あなたぁええ子ですわ。ええ人らが見えますわ」

施設のみんなのことを思い出す。
言われてみれば、急に帰りたくなった。

「俺、死んだの?」

「死んどりますわ。娘っ子が泣きよりますわ」

と、いろりの鍋の中を俺に見せる。
鍋に入ったものの表面に、俺にすがりつく桜子が映っていた。
この非現実的な光景を見て、状況を受け入れることにした。
ここは死後の世界。
じいさんは神。

「あなたぁ派手にゲーゲーやりよりましたからなぁ、おかしいと思うたんでしょうな」

「俺を戻してくれ。俺はあいつを助ける」

「おほほぅ、あの娘さん、『駆、帰ってきて』言うとりますわ」

俺には何も聞こえない。

「帰りますかな? 帰しちゃることはできますけどな、
あなたぁまた、死ぬほど苦しい体に戻ることになりますけど、それでもええんですかいな?」

「帰る」

「もう少しで助けが来ますけぇな、がんばってつかあさいや」

「愛の力ですのう」とか言いながら、じいさんは俺の頭に手をかざした。

――――――――――

急に呼吸ができなくなり、視界が暗転した。
寒い。物の温度がわからない。
重さを感じるのは、桜子か、水を吸った衣服か。

「駆君! 死んじゃだめだよ! 返事して!」

声が出ない。
息をしようとしても空気を吸えない。

俺は激しくむせた。

「わああ生き返った! 救助の人来たからね! もうちょっとがんばってね!」

子供にも死んでいたとわかるくらいなら、心肺停止状態だったんだろう。
俺は担架で運ばれて、待機していた救急車で強心剤を打たれた。



100 自分: ◆CIZA6sfEUc[saga] 投稿日:2013/10/07(月) 08:46:48.81 ID:r968X1fto

えらそうなおっさんが俺に詰め寄って何か言う。
怒っているらしかった。

「パパやめて! 駆君は助けてくれたの!」

「嘘を言うな桜子! 何を吹き込まれたか知らんが、お前に何かあったら――」

(だから、俺が何もないようにしてたんだろうが)

声は出ない。
口はしびれて動かせない。

誰かに褒めてほしかったわけじゃない。
見返りがほしかったわけじゃない。
桜子を無事に帰して、親御さんはニコニコ。
俺も納得の結果。知性と機転の勝利。
みんなハッピー。
それでよかった。
でも、この仕打ちはないんじゃないか。

「ねえパパ! 話を聞いて! 駆君はそんな子じゃないもん!」

「今は神経が高ぶっているから、元気だと錯覚してるんだ、後々病気にでもなったら母さんに――」

「パパきらい!!」

おっさんの怒りが一瞬でしぼんだ。

桜子の怒ったところは、後にも先にもこのときしか知らない。
俺が留学している間、あったかもしれないけど。

「これ、ママに渡して」

桜子がおっさんに花を渡す。

「駆君と一緒に救急車乗る。パパはついてこないで」

うろたえるおっさんに、桜子が追い打ちをかけた。

「ママに届けようと思って、珍しい花が咲いてたから摘みにいったら迷ったの。
 駆君がまっさきに助けに来てくれて、おなかがすかないように、怖くないようについててくれたのに。
 でも、パパがほんとのこと聞いてくれないんじゃ意味ないよね。
 あたしは勉強できないけど、ばかじゃないもん。ちゃんと聞いてよ」


桜子は泣きながら一気にまくしたてると、救急車に飛び乗った。
俺は親子のバトルより、苦痛で充満した自分の体が気になって仕方なかった。

(後遺症とか、あるのかな……)

でも、桜子が自分の父親とはいえ、あの威圧感のあるおっさんに立ち向かってくれたことは嬉しかった。

部屋に帰ると、桜子はごろ寝しながら図鑑を眺めていた。

「あ、駆おかえりー」

起き上がって出迎えに来ようとするのを制止する。

「来るなー!」

今の俺には例の匂いがしみついているかもしれない。

「いいか、念のため、部屋の隅に行って鼻と口をハンカチで覆うんだ」

桜子は固まったまま、首だけ縦に動かす。
なぜかすり足で移動した。

(別に音は立てても大丈夫なんだけどな)

「い、いつまでこうしてればいいの?」

「俺が風呂場に行くまでだ。今の俺は臭いぞ。すごく臭いぞ」

「そう言われると気になるよ」

「来るなよ! 絶対来るなよ!」

「え、『押すなよ』的な?」

「なんだそりゃ」

「来いって意味」

「来るなよ!」

「はあい」

(ちゃんとわかったのかな……)

衣服を浴室の床に放って蛇口をひねる。
Tシャツにスウェットという、いい加減なかっこうで出かけていたのが、まだ救いだった。

(気合入れていい服着ていかなくてよかった)

濡れた服の上にシャンプーを振り掛けて足で軽く踏み洗いする。
安物とはいえ、肌触りは気に入っていたから、臭いがとれずに捨てることになったら残念だ。
とりあえず一度は洗濯機に放り込んでみることにした。

念入りに体を洗ったが、鼻腔に悪臭がしみついている気がした。

「桜子、もういいぞ」

桜子はカーテンの後ろにいた。

「お前は何から隠れてるんだ」

「こ、このほうが安全だと思って」

箒まで構えている。

「何と戦うつもりなんだ」

「悪い人!」

「来ないって。お前、風呂は?」

寝起きは気付かなかったが、少しにおう気がする。

「まだ」

「シャワー浴びてこい。今朝着てた服は捨てるかクリーニングに出せ」

「これ、気に入ってたのに」

「お前にはわからんだろうが、くさいぞ」

「う」

「それにその臭いをさせながら他の女に近寄ってみろ。今朝の女子アナみたいなのがたくさん出てくるぞ」

本当は「出てくるかもしれない」。

「やだ」

「別に裸でいろって言ってるわけじゃないんだから、そんなに嫌がることはないだろう」

「クリーニング出したら、返ってくるまで服ないもん」

「俺のを貸してやる。誰に見られるわけでもないんだから平気だろう」

「でも駆の服でおうち帰るのはちょっと……」

「帰れないぞ」

「えっ」

「今頃女には屋内避難命令が出てるから、外は歩けない」

「どっ、どうしよう。いつまで?」

「しばらく」

「何時間?」

「何日の間違いだろ。発生したフェルビッチアを駆除し、専門家が周辺の空気中に毒素が漂ってないか確認作業をする」

「それって、そんなに大変なの?」

「フェルビッチアは知らんが、地表に出ている部分はよく似た構造をもつウェルウィッチアの根は地下10メートルにも及ぶらしい」

「うええ」

「重機を使っても、一日二日で終わるかどうか……」

「じゃあ、あたしはしばらくここから動けないんだね」

「そういうことだ」

桜子は諦めがついたらしく、ようやく浴室に入った。

タオルを置いてある棚に、なるべくきれいな服を置く。
大きめのレジ袋に桜子の着ていたものを突っ込んで口を縛った。

(あの女子アナはどうなったかな……)

今頃は入院手続きをしているかもしれない。
世間の奇異の目にさらされるよりは、ほとぼりが冷めるまでそうしたほうがいいだろう。
きっと彼女のことを、ゴシップ誌が面白おかしく書き立てる。
奴らの手にかかれば抑圧していた欲求を公共の電波で爆発させた淫乱女に仕立て上げられるのだ。

(症状がセックスがらみってだけで、どうしてこうも面白がれるんだ。ばかばかしい)

まだ記事が出たわけじゃない。
でも予測はできる。
どこから俺が症状を起こした桜子を保護している情報が漏れるかわからない。
とはいえ、桜子の家族に嘘はつきたくない。

(俺が研究室にこもる間はどうする)

桜子を一人でここに残していいのか。
大学には男が多すぎて、何かの拍子に症状がぶり返したらと思うと連れていけない。
外を出歩かせるわけにもいかない。

「あー! あたしの服ー!」

桜子が抗議が聞こえたので思考が引き戻される。

「すまん、繊維に毒が残ってたらいけないから――」

「キャー!」

ヴィーナスの誕生スタイルで桜子が悲鳴を上げる。

「怒るな騒ぐな話を聞け」

「あっち! 向いて!」

回れ右してバスタオルを投げてやった。

「……あたし何やってるんだろ」

「嘆く気持ちはわかるが、今は自分を第一に考えるんだな」

「お股痛い」

それを言われると弱い。

「すまん」

「謝らないで。自分なりに最悪は避けられたんだから」

後ろから遠慮がちに腕が回される。
今の桜子には理性が働いている。

「お前はもっと自分の境遇に怒ったり悲しんだりしていい」

「なんでこんなことになっちゃったのか知らないけど、私は自分で最悪の事態を避けたよ」

放送事故の画面を思い出す。

「ここまで何もなく来れたことか」

「うん。途中で誰でもいいから! って頭の中が真っ赤になったりしたけど、私はそうしなかった。だから私の勝ち」

「意志の力でどうこうできるもんじゃないんだけどな……」

「負けたら舌を噛んで死ぬつもりだったよ。だから私のほうが強かったんだよ」

「死ぬ」とか「勝ち負け」なんて言葉が桜子の口から出ることが信じられなかった。
思わず体ごと振り向く。

バスタオルを巻いた桜子。
髪が濡れて首や肩にはりついている。
化粧を落としたせいか、朝より印象が幼いが、眼力は強い。

「駆、あたしも大人だよ。自分をどうするかくらい考えられるよ」

どうするのがいいかはわからなかったが、どうしたいかは考えるまでもなかった。

――――――――――

目が覚めると、夕方になっていた。
眠ってしまったらしい。
隣には裸の桜子が眠っている。

(研究室行こうと思ったんだけどな……)

カーテンの隙間から西日が差し込んでいる。
帰国したばかりで、冷蔵庫には満足に物が入っていない。
うちにあるのは酒や缶詰みたいな保存がきくものばかりだ。
食料品を何日か分買いに行くことにした。

(桜子、家に連絡したかな)

「買い物に行ってくる。家に電話して」とメモを書いた。
気付かないかもしれないので、桜子のおでこにメモを貼って家を出た。

公園のそばを通って様子をうかがうと、例の悪臭は弱くなっていた。
俺の鼻が慣れたわけじゃなく、植物を囲むように小屋ができていた。
お役所のすることだから、迅速な対応なんて数日後のことかもしれない。
女の姿を見かけないだけ、よく動いてくれた方なんだろう。

(しかし日本に発生するとはな)

厄介な植物だが、興味深いと思った。

(原産地とは環境が全く異なる。持ち込もうにも育てるのは困難だ)

見た目はともかく、臭いには耐えられない。
マニアでも傍には置いておきたくないだろう。

そんなことを考えながら買い物を済ませて帰った。

桜子は電話をしていた。

「――うん。うん。だから落ち着くまで駆のとこでお世話になるね。
 うん。それじゃ。はい。はーい」

桜子は電話を切りながら振り向いた。

「あ、駆おかえりー」

「うん」

ただいま、と言いそびれた。

「親父さん、何て?」

「違うよ。お母さんだよ」

「お袋さん、何て?」

「迷惑かけちゃだめよって」

「えらくあっさりしてるな」

「他にも何か言ってたけど大体そんな感じ」

「そうか」

桜子はまだ服を着ていなかった。

「服着ろって」

「服取って。それと人をキョンシー扱いしないで」

「あー」

脱衣所から服を放ってやった。

「しかしアレですね。ノーパンでズボンをはくと、違和感が半端ないですね」

「かといって俺のパンツははきたくないだろう」

「はきたくないですね」

桜子はしばらく迷って、バスタオルを腰に巻くことにしたらしい。

「それはそれで危うい気がする」

「駆しかいないしへーきへーき」

(でも何かの拍子でタオルが落ちたら騒ぐんだろうな)

本人が納得してるようなので、それでいいことにした。
台所に立つ俺を眺めながら桜子が訊く。

「ごはん?」

「少し早いけど明日は早く出たいしな。今日はもう寝る」

「さっきまで寝てたのに?」

「それはそれ。時差ボケも抜けきってないし」

昨日、空港まで迎えに来てくれた桜子とそのまま飲みに行った。
次の日は仕事だからと言うから、桜子を家の近くまで送った。
俺は疲れと酔いで帰ってすぐ寝た。

「じゃあ、あたしが作るよ」

「いいのか」

「保護してもらってるし、これくらいはね」

桜子は台所の下の収納から包丁を取り出す。
いい年なのに危なっかしいような気がする。
でも、悪くないと思う。
何も言えなくなりそうだった。

「頼む」

俺は短く言った。

夕食をとりながら話をした。

「明日から日中は留守にする」

「調査?」

「さっきサンプルを採ったからな。成分を解析してみる」

「それって何日もかかるの?」

「やってみないことにはわからんが、俺はそこから解毒剤を作りたい」

「え、薬ないの?」

「ないから騒動になったんだ。今のところ症状が出たのはお前ともう一人だけ」

今朝のニュースを思い出したのか、桜子の表情が曇る。

「後遺症はないようだが、犠牲者が出たんだ。無駄にするわけにもいかんだろう」

「……あたしももう大丈夫かな」

「わからん。日本での症例がないし、数少ない文献の情報も伝聞によるものなんだ」

桜子の頬がこわばる。

「ちょっとでもおかしいと思ったら電話しろ。遠慮するなよ」

「うん……」

「本当はお前に付いててやるのが一番いいんだけどな」

「ううん。あたしは大丈夫。今は何ともないし、何かあったら帰ってきてくれるんでしょ?」

「うん」

「なら平気。明日からがんばってね」

桜子は笑顔を作るが、どこか無理をしてるようだった。

「でもやっぱりちょっと寂しいから、ペナルティとしてこれ開けちゃうね」

と、冷蔵庫から空港で買ったワインとグラスを出してくる。

「あ、それは俺の」

「だからペナルティになるんじゃない。それに駆一人じゃ、これ開けるのに何日かかるかわかんないよ」

俺はあまり酒に強くなかった。

「うーん」

「駆に口で勝ったー」

桜子は勝利宣言しながらグラスにワインをなみなみ注いでいく。

「飲みすぎるなよ」

「大丈夫大丈夫。これだけだから」

(飲まなきゃやってられないのかもな)

能天気に見えて、彼女なりに考えて動いていた。
現状と自分の気持ちが折り合うまでは時間がかかるのかもしれない。

(しかし美味そうに飲むな……)

買い物に出たとき、チーズかチョコレートでも買っておいてやればよかったと思った。

口に合ったのか、桜子は機嫌良く俺の隣で酔っている。
昨晩の居酒屋でもそうだったけど、桜子は酔うと甘える。

中学を出てから日本を離れて、大人になるまであっちの大学や研究所にいた。
休暇に教授の調査に同行するのが楽しみだった。
日本には、年に一度か二度帰るくらいだった。

「美味いか」

周りはみんな年上だった。
俺がブロンドでムチムチのおねーちゃんにケツをつかまれて「カワイイ」だなんだとからかわれ、
IQの代わりに筋肉が肥大したような運動部の悪ノリする奴に小突かれたりして、見返したくて鍛えたりしていた間に、
桜子も高校生になり、大学生になり、社会人になっていた。

「おいしーい。うふふふっ」

気持ちよさそうに何度か大きくうなずいた。
頭を俺の肩にのせて眠そうにしている。
顔が上を向いているせいで唇が少し開いている。
前歯が覗くのが可愛いと思った。

「お前、会社の飲み会でもそうなの?」

「お仕事の飲みはー、あんまり飲まないのー」

「そうか」

「駆と飲むのはおいしいー」

「そうか」

(俺、飲んでないけどな)

「俺もちょっともらおうかな」

「もらう」も何も、元々俺のだ。
でもボトルを桜子がキープしているせいで、桜子のものに見える。
桜子のグラスを口につけるのを見つめながら、自分のグラスを取ってこようと腰を上げる。
それを桜子が制した。

「おい、つかんだら立てないって――」

「ん」

首に腕がまわされキスされたと認識したところで口内に液体が流れ込んできた。
それを飲みこんで、桜子の頭を支えて唇を合わせたまま舌を入れる。
桜子はおとなしく口の中をかき回され、ときどき俺の舌を舐める。
たまに鼻にかかった声が息と一緒に漏れるのがたまらなかった。

「駆ぅ、あのー、あのねぇ……」

困っているのか媚びているのかわからない。

「言いたいことでもあるのか」

「したいことはあるけど言いたくないのー。やだはずかしーい」

と、額を俺の鎖骨のあたりにぐりぐり押し付けてくる。痛い。

「お前の状態から察しはつくが」

「じょーたい、じょうたいってなーによー」

「性的な興奮状態にあるだろう。俺も正直やりたくて仕方ないがお前の体が心配です」

「へんなときに優しいねー」

「また『お股痛い』とか言われても、俺うろたえるからな」

「天才なのにー」

いろんな人が俺を「天才」だとか「神童」だとか言った。
多少の煩わしさは感じた。
桜子に言われるのは嫌じゃなかった。

「それは事実だが知能が高いからといって何もかも割り切れるわけじゃないぞ」

「じゃあいたくないようにして」

桜子は無理難題を押し付けながら、ついでに胸も押し付けながら俺を押し倒した。

「うーん、自信ないなー……」

ぼやきながら桜子の背中や腰をまさぐってみる。
ところどころ感じるポイントがあるらしく、その度に体が小さく跳ねた。
不思議な満足感があった。

「ねえ、こっちも」

俺の手を自分の胸に押し付ける。
広げた指と手のひらの中で柔らかいものが反発しながらひしゃげた。
指の間に、Tシャツの生地ごしに固い乳首の感触があった。
指を閉じてひねると桜子は肩を竦めて高い声を上げた。

桜子は首を横に振る。
髪が肩先で揺れる。
Tシャツを脱がせようとしたら「明るいから」と抵抗にあった。
仕方がないので裾から手を入れる。
酔っている割に肌が冷たいのに驚いた。

「寒くないか」

「のんでるからあつい」

またがったままの桜子を抱き寄せて上半身をぴったり合わせる。
そのまま首や肩を舐めてやると、桜子は声を漏らしながら息を荒くした。
冷たい体表が温かくなっていって気分がよかった。

尻に触るとタオルが落ちた。

(こいつなんでパンツはいてないんだっけ)

そんなことはどうでもいい。
肉付きのいい太ももを、感触を覚えるように強めにさする。
脚の間に指を滑らせると水っぽい音がして抵抗なく入り込んだ。
熱い粘膜と液体が指に絡む。

「うわ、すご」

「やだぁ、言っちゃだめ」

肩を抱かれて動かせないせいか、腰がくねる。

「人のこと、言えないくせに……っ」

股間のものをスウェットごしにつかまれる。
意外に乱暴だったのでうめき声が出る。
下着ごといきなり下ろされた。

「ねえ、いれちゃっていい?」

「――あ」

返事をする間もなく桜子は先端をあてがって腰を沈めていた。

「やばい、やばいって」

何が危険なのかわからないけど慌てなきゃいけない気がする。

「駆が頭悪そうなこと言ってるー」

桜子は頬を上気させて笑う。
顔と下半身で起こってることが一致していない。

「痛くないか」

「ちょと痛い」

一気に全部収めたせいか、桜子は動くに動けなくなったらしい。

「抜こうか?」

「やだぁ」

体を起こして座った。

「な、なに?」

桜子が戸惑いながら抱き付いてくる。

「慣れるまで待とう」

「でもなんかこれ、動きたい感じ?」

聞きながら既に腰がもじもじしている。

「無理するなよー」

好きにさせてやることにした。
俺は今のうちにいろいろ触っておく。
できるだけ覚えておきたいと思った
今度いつ日本を出るかわからないのだ。
数日か数か月か、数年かもしれない。

桜子に唇をついばまれながら思う。

(ついてきてくれとは言えないよな)

背中に両腕を回して抱きしめる。
桜子の中が少し動いた。

「あ、こら締めるな」

終わるのがもったいない。

「そんな器用なことできないよ」

俺の首にしがみついて耳元で喘ぐ。
背中を伸ばしたときに腰の角度が変わったらしい。

「あっ、これ、だめ。動いちゃう」

「大人しくしろって」

緩やかな快感に長時間浸っていたせいか思考が鈍い。

「うぅ、無理」

(もう好きにしてくれ)

頬を合わせると火照っていた。
汗ばんでいるせいか吸い付くようだ。

「もう、ひげ痛いよ」

「ああ、すまん」

桜子は聞いているのかいないのか、時々体を震わせる。

「大丈夫か」

「ああ、うん……ねえ、あたしちょっと変だよ。びくってなるよ」

「それは異常でも何でもないから安心しろ」

「ほんと? じゃあもっと」

「貪欲だなぁ」

「うあぁ、そういうこと言っちゃやだぁ」

また中がうねる。
少し羞恥心を煽った方が反応がいいのかもしれない。

(いかん、眠くなってきた)

「桜子、俺もちょっとだめだ。頭が働かない」

「たまには馬鹿になってよ」

「いいの?」

「駆のおバカなとこ見てみたい」

「でも俺、生まれてこの方頭悪かったことなんてないぞ」

「やぁだ、その発言頭わるぅい」

「事実だって――お前ちょっと黙れ」

「んー!」

急にこみ上げてくるものを感じて唇を合わせた。
波打ってるのは俺のだ。
長い。
桜子が舌を吸う。
精液から意識まで何もかも吸われそうになる。

「ん……なにこれ。どくどくしてるよ」

「ああ、うん」

一旦、全部を頭の隅に追いやることにした。
そうしたら、今の俺の全部はこの部屋とこの体と桜子だけだ。
十分な気がした。

仰向けに倒れた俺の上に、桜子が倒れこむ。
頭を抱いて髪に鼻をうずめるといい匂いがした。

(同じものを使ったのに、この違いは何だ)

何だ、という疑問も、今は放り出す。
いつもの俺なら香りの立ち方は湿度や体温によるところが――なんて考える。
でも、そんな疑問も答えも、今はどこでもないどこかへ追いやる。
湿原でも成層圏でもいい。

(現実)

幸か不幸か、全部現実。
厄介な植物が生えたのもこうして桜子を抱いているのも現実。

(どーでもいいや)

俺は夢も見ないほど深く眠った。

翌朝、目が覚めたら何か焼ける音がしていた。
桜子が台所に立っていた。

(あのまま寝たのか)

「おはよー。勝手に作っちゃったけど、食べていくよね?」

テーブルに味噌汁と、周りをほうれん草で囲んだ目玉焼きを置きながら言う。
言われてみれば腹が減った。

「うん」

「ごはんはこれくらい?」

と、米を盛った茶碗を俺に見せる。

「うん」

「簡単にしか作れてないけど」

「いや、食事らしい朝飯って久しぶりだ。いただきます」

一人のときもちゃんと手を合わせる。
所長の教えだ。

「美味しい?」

「うん」

部屋の隅の洗濯物のあたりに目をやる。

「パンツは回収しました」

「うん」

「お客さん来ないからって隠さずに干したら恥ずかしいよ」

「すまん」

一晩経って、あまり普通に振る舞われると逆に戸惑う。

「からだ」

「うん?」

「何ともないか」

「うん」

「昨日も言ったけど、ちょっとでもおかしいと思ったら電話しろよ」

「うん」

食事を終えて、身支度をした。

「ひげ剃らないの?」

「まだそんなに伸びてないし顔は洗った」

「もー」

「じゃあ行ってくる。しつこいようだけど――」

強く短いキスで黙らされる。
しつこかったらしい。

「いってらっしゃい」

「お、おう」

通勤は徒歩。
公園の前を通ると、入り口の柵が撤去されていた。
砂場には重機がとまっている。
動き始めたらしい。

やっとエンジンのかかり始めた頭で考える。
この事件はチャンスでもある。
解決の糸口を見つければ、キャリアの足しになる。

あの気の毒なレポーターも、退院できる。
屋内退避で身動きの取れない女達も解放できる。
桜子も、何の心配もなく家に帰してやれる。

(俺のおかげでみんなニコニコ。みんなハッピー)

人と関わるのは得意じゃないが、周りの人が助けてやろうと思ってくれるくらいには、俺の知識は有益だった。

(サンキュー所長。サンキュー教授)

こんな事態だけど、今の俺は気分が良かった。

(現実ねぇ)

上等だ。
この件を片付けたら、桜子に伝える。
そう決めて、早足で研究室に向かった。

―――――数日後―――――

俺は毒の解析にてこずっていた。
不純物に邪魔されて、フェルビッチア本来の成分を分離できないでいた。

(ここまで複雑な構造だったとは……)

細胞を見てみたが、ひとつひとつが変質していて元がどんな状態だったかもわからない。

(なんてことだ……)

植物が奇形になることはある。
花が丸くならず、帯のように平坦になったり、
花の周りを花が縁取ったり、
花の中から葉が生えたりすることはある。

(なんだこれは……こんな複雑な変異が起こるか?)

偶然変質したフェルビッチアの種子が、
偶然この国に運ばれ、
偶然生育できるだけの環境が揃ったということか。

(気候が違う。やはり自生は難しい)

誰かが持ち込んだ可能性も考えたが、近所迷惑になるし、
何より所有者が臭いに耐えられない。
すぐに手放すだろう。

外を見ると、日が落ちていた。

(帰ろう)

公園の前を通ると、重機は撤退していた。
立入禁止は解除されてていない。

(これで被害者が増えなければいいが)

となると、あとは解毒剤だ。
元の個体が駆除された以上、使えるサンプルは俺の手元にあるだけ。

ジュラルミンケースを携えた男がこっちを見ているような気がした。
服装はサラリーマン風だが、着なれていないようだった。

(どこかの研究所の職員かな)

顔見知りなら挨拶しておこうかと思ったが、俺が踏み出したところで立ち去ってしまった。

(なんだ、あいつ)

俺だって手柄は欲しいが、状況は良いとは言えない。
協力なら歓迎した。
それを避けられたということは、競合する相手がいるのかもしれない。

(俺、商売敵と間違えられたのかな)

しっくりこないと思いながら、家に帰った。

「駆、おかえりー」

「ただいま」

家に桜子がいるのも見慣れてきた。

「どう? お仕事」

「難航してる。妙な不純物が混じりこんでてな」

「不純物?」

「全く別の物質なら、そいつを特定して解析結果から外せばいいんだろうが、ところどころ同化して――」

既に桜子がついて行けない顔になっている。

「難しいが、それは難しいだけだ」

「大変ってことでしょ?」

「不可能とは言っていない」

「『絶対』何とかする」

「そうだ」

「もう危ないことしないでね。あたしはここにいれば安全だから」

「うん」

「そうそう。テレビで見たんだけどね」

「俺のテレビはつかない」

「まだ地デジ化のこと気にしてたの?」

「腑に落ちない」

「諦めて買い換えればいいのに」

「元々あまり見ないからな」

「でも一応買ったんだ」

同僚が新品を買ったからといって古いのを押し付けてきたのをもらっただけだ。
桜子が来たときに退屈させても悪いと思って置いていた。
そういった事情を桜子は知らないし、俺も言わない。

「えっと、あたしの携帯のワンセグで見たんだけどね」

テレビの話は切り上げられたようだ。

「うん」

「あの変なの、掘り返して燃やしたって」

「そうらしいな。公園の前を通った」

臭気もなかった。

「初めて駆が様子見に行ったときはおかしかったよね」

「そうか?」

「だって帰ってくるなり『寄るなー! 今の俺は臭いぞ!』だもん」

「あの臭いが原因だったらと思うとな……」

「でも、あれから平気だよ」

「お前はそばを通っただけか」

「うん。へんな匂いがして、気になったけど仕事あるから素通りしたの」

「じゃあ、通勤途中を俺ん家まで引き返したのか」

「うーん……やだ恥ずかしい!」

思い出したらしい。

「今更」

「それとこれとは別!」

桜子が言うならそうなんだろう。

「明日あたり、避難命令解除されるかもな」

短かった共同生活も終わりだ。

「うん。でも外出るのちょっと怖いな」

「心配なら自宅でもう二、三日休んでもいいだろう」

「……でも仕事だから、そうもいかないよ」

「なんだ、そういう規則でもあるのか。明文化されてるのか」

「そういうわけじゃないけど、雰囲気ってあるから」

「くだらん」

「普通の人は、空気を読むの」

「空気と、貞操と尊厳どっちが大事なんだ」

「たぶん、当事者にならなかった人はわからないんだよ」

「何もなかったからか」

保険所のおっさんを思い出す。
あのおっさんならみんなに不便な思いをさせても、街の事業が停滞して多少の非難を受けても娘を守る。

「そう。この街の外ではきっと、三面記事くらきの扱いなんだよ」

桜子の親父さんだってそうだろう。

「でも経済的に影響が出ただろう」

「そうだね。女の人も働いてるから。きっとこの数日でたくさんの会社が混乱したよ」

「だったらなおさら」

「大変なのはわかってるんだよ。でも、世間って簡単なことを難しくするの」

「世間か」

あまり好きじゃない言葉だ。
そんなものに迎合しては目が曇るじゃないか。

「賢くて強い人なら、ちょっとくらい顰蹙かっても対処できると思う。でも、ちょっと白い目で見られただけで凹む人もいるんだよ」

「それは辛いのか」

「辛いよ」

「問題から目を逸らして無理やりいつもと同じ振る舞いをさせたところで、何の解決にもならんだろう」

自ら後手に回った奴に、被害者に不用心だなんだとしたり顔で批判する資格はない。

「ひどいことが起こらないと、特別な対応ってしてもらえないんだよね」

頭に血が上った。
既に被害は出た。
桜子だってこんなもんじゃ済まなかったかもしれない。

「それじゃ遅いんだよ!」

思わず声を荒げていた。

「わかってる! でもあたし、何もできない」

間違えたと思った。

「駆があたしに怒ってるんじゃないってわかってるよ。
あたしだって別に何かの肩を持ってるわけじゃない」

俺は桜子を再び危険に晒しかねない社会の構造に怒ったのであって、桜子に怒ってはいない。
話の筋を見誤った。

「世の中を動かしてる人が、みんな賢いわけじゃないんだよ。
駆みたいに、一足飛びで考えて行動してくれないの。
流れを変えてくれないの。世間は」

「また世間か」

ぼんやりしたものにバイアスをかけられるのは嫌だ。
社会学者ならうまく解説してくれるかもしれないが、あいにく俺は薬草学者だ。

「そんな言い方しないで」

「違うんだ。俺はお前にいらついてるわけじゃ――」

「ねえ、一旦やめようよ。
あたし、なんだかよくわからないものの味方になってるみたい。そんなことないのに」

「でも、お前の問題は、お前の体は――」

「ごめん、駆。もうこの話したくないよ。明日実家に帰るね。
ここに置いてくれて、守ってくれて嬉しかった。
今日はもう遅いよ。寝よう」

桜子は布団にもぐって背中を向けた。
無言で促されたような気がして、電気を消して布団に入る。
俺の主張は間違っていないはずだが、実現が難しいという点では欠陥があるのだろう。
俺の怒りも正しいはずだが、それは世間に向けるべきではなかったのだろう。
桜子に謝ったほうがいい気がしたけど、どう謝ればいいのかわからなかった。

翌朝、桜子はいなかった。
まさか本当に実家に帰られると思ってなかった。

(独身なのに実家に帰らせていただきます! ってのも変だよな)

カーテンを開けて外を眺める。
ごみステーションに若い主婦の姿が見えた。

(もう出歩いてもいいのか)

なんとなく携帯電話をチェックする。
メールも着信も入っていない。

(俺は何を期待したんだろうな)

新聞は大学の図書館で読むから自宅には取っていない。
テレビはつながらない。

(行くか)

冷たい水で顔を洗った。
鏡の中の無精ひげが目立ってきた気がするが、気にしない。
寝ぐせがついている気がするが、昨夜風呂には入ったから気にしない。
部屋に干しっぱなしの服を適当に見繕って家を出た。

解錠して研究室に入る。
何日か費やしたが、ここの設備ではできることに限界がある。
作業に取り掛かる気になれず、空のシャーレを睨む。
採取したサンプルは少ない。
増やすには時間がかかる。
独力での限界が見えてきていた。

(知り合いのラボに持ち込んでみるかな)

心当たりのある人物の顔を何人か思い浮かべる。
連絡先はパソコンの中だ。
扉に振り返ると、面識のない男が立っていた。

(なんだこいつ)

勝手に入っておいて、遠慮がちなところがない。
学生ではない。
手にはジュラルミンケース。
体に合っていないスーツ。
昨日の男だとわかった。

「設備のメンテを頼んだ覚えはないんだがな」

わざととぼけた。

「要望を伝える」

顔はまっすぐ俺に向いているが、目が合っている気がしない。
視線が俺の頭を貫通している。

(こいつ、カタギじゃない)

「サンプルを破棄しろ」

「なんのことだ?」

フェルビッチアのことを言っている。
俺が出張ることで、こいつと利害の衝突が発生するのか。
だとしたら、こいつは何者だ。

「女を保護しているだろう」

全身の毛穴が収縮した。
熱いのか寒いのかわからない。
努めて無表情のまま、薬品のならんだ棚に視線をやった。

「妙なことは考えるな」

男がスタンガンをちらつかせる。

「どこの職員だ? 随分楽しそうな玩具を支給してくれるんだな」

目的は何か。
仲間はいるのか。
聞き出さなければ。
桜子が危ない。

「要望を伝える。サンプルを破棄しろ」

「仮に俺がお目当てのものを持っていて、そいつを差し出したところでどうする?」

「しかるべき機関に戻す」

「そこで研究するってことかい。俺とは協力したくないわけだ」

こいつは敵だ。

「お前はそれでいいのか」

初めてこの男が俺を見た気がした。

「何が言いたい」

「いずれ薬草学の権威となるお前が、こんないち地方の大学の研究室にいていいのかと聞いている」

「周りが勝手に言ってるだけだ」

「お前はここでくすぶっているつもりか」

「くすぶるも何も、不自由はしてない。俺の研究は人の役にも立ってる。十分だ」

「もっと大きなもののために、国のために働く気はないか」

「国のスカウトにしちゃ物騒だな」

ここでわかった。
こいつは公的機関の人間じゃない。

「この国は――」

男は語り始めた。

「この国はこのままでは滅ぶぞ」

通報できないか時間を稼ぎたかった。
好きに喋らせて、こいつが情報を漏らすのを待った。
少子化がどうとか人口が移民がどうとかと、たいそう大仰に演説してくれた。

「なるほどね。それでフェルビッチアか」

「そうだ。だから女も子供を産まないのだ」

「そりゃあ短絡的だろう。子供を産んでおしまいってわけにもいかない」

「知っているぞ。お前は施設の出だろう」

「プライベートなんでね。そこはノーコメントだ」

「まあいいだろう。産ませておけばいいのだ育てられないなら預ければいい話だ」

「無責任だなあ」

素朴な感想だった。

「我々が預かり、育てる。この国に有用な人材にする」

「どっかの暗殺集団の発想だな」

「ふざけるな!!」

激昂された。

「自分の立場がわかっていないようだな」

桜子の存在を知られている以上、抵抗を続けることはできない。

「これで最後だ。サンプルを破棄しろ」

数秒でいろんなものを秤にかけなければならなかった。
桜子の身柄。キャリア。被害の拡大。その予防。
薬の開発。被害者の解毒。将来。
原産地の女達。かわいそうな少女の話。
俺の命。業績。
桜子の無事。

「その――」

拳を握っていた。
噛み締めた奥歯が軋む。

「その容器にあるだけだ。持っていけ」

立ち向かうこともできなかった。
こいつがここに来た時から、俺はこうすると決まっていた。
男はサンプルをしまうと、何も言わず去っていった。

扉の閉まる音を聞くと、無性に腹が立った。
机に何度も拳を打ち付けた。
何か叫んだが、言葉になっていなかった。

フェルビッチアに対抗する材料がなくなってしまった。
駆除しても、今後発生しないとは言い切れない。
あの男の話では、フェルビッチアを利用して子供を増やすんだそうだ。
薬を作るのか、株を増殖させるのか、手段はわからない。

今は研究段階なのだろう。
奴らが行動を起こしたら、それから手を打つのでは遅い。

(帰ろう)

何もできなくなっていた。

(帰って寝よう)

これが悔しさか。

(寝て、起きて、それから考えよう)

桜子に会いたくなった。
ポケットを探る。

(携帯忘れた……)

あるとしたら、家のテーブルか洗面所だ。
桜子にはたまに携帯電話を携帯しないんだから、と叱られる。

(桜子は無事か)

今頃は仕事か。
桜子の電話番号もメールアドレスも覚えている。
デスクの電話からかけたが何度かコールした後、留守電に切り替わってしまった。
勤務先は知らない。

(実家は……)

小学生の頃から連絡網のプリントで何度も目にした番号だ。覚えている。
緊張しながらかけてみたが、留守だった。
今ここでできることはなくなった。

(帰ろう)

ぶつけた手が痛かった。

案の定、俺の携帯はテーブルの上に置き忘れていた。
折り返しの連絡は入っていない。
時間は昼を過ぎていた。
腹が内側から握られるように痛んだ。

勤務先は知らない。
自宅は留守。
どうやって探していいかわからない。

たまらなくなって、もう一度桜子の携帯をコールする。
無神論者の俺が初めて祈った。

玄関からバイブ音が聞こえた。
そのまま鳴らしながら玄関に行くと、下駄箱の上で桜子の携帯が光っていた。

その後、自分がどう行動したか覚えていない。
気がつくと椅子に座って、テーブルに突っ伏していた。
目を閉じていれば眠れるような気がしたけど無理だった。

ここ数日、根詰めすぎていた気はする。
桜子から目の下の隈を指摘されたことを思い出す。
桜子が眠った後も、暗い宙を見つめて考えていた。
眠いと思ったが眠れなかった。

長い間、眠ろうとして眠れず、横になったり座ったりを繰り返した。
時計の秒針の音が煩わしくなって電池を抜いた。
静かになった。
たまにアパートの前の通りを車が行き来するエンジン音が丁度よかった。
ハイヒールが階段をのぼる音がする。

(普通の勤め人は仕事が終わる時間か)

次に目を開けたら、桜子の家にもう一度電話してみようと思った。
親父さんに怒られるかもしれないが、桜子が普通に帰宅していればそれでいい。

ヒールの音が俺の部屋の前で止まり、インターホンが鳴った。

億劫で覗き穴から確認せずに戸を開けた。
桜子が、決まり悪そうに立っていた。

「忘れ物しちゃった」

手首を掴み、玄関に引き込んで外傷がないかざっと確認する。

「えっ、えっ? 何?」

桜子は戸惑いながらされるがままになっている。

「やだ、何? ねえ」

服を脱がして目視できる部分には異常なかった。

「ちょっと、駆!」

抵抗されて我に返った。

「いきなりそれはないと思うの」

「すまん、誤解だ」

「流石にあたしでも引くよ」

「いや、なんていうか、ごめん」

「もう」

少し怒っているが、元気そうだった。

「お前、変な男見なかったか」

「目の前に」

「ジュラルミンケースに、ぶかぶかのスーツを着た男」

「知らないよ」

「誰かにつけられたり――」

「してないよ。今日は一旦帰って、それから会社行って普通に仕事してここに来たの」

桜子は脅迫の材料にされただけだった。

「ねえ、痛いよ」

腕の中で桜子が弱く身をよじる。

「どうしたの」

サンプルはない。
怪しい組織が俺を知ってる。
厄災の元は断たれてなんかいない。
でも、桜子は無事だ。
そのことは喜んでいいと思った。

悔しさと無力感と、救われた気分がごちゃ混ぜになって俺は嗚咽した。

「部屋、入ろう」

狭い玄関だった。
よろけた桜子のパンプスが、俺のくたびれたサンダルを踏んでいる。

「頭いてえ」

顔を見られたくなくて、桜子の額を胸に押し付けた。

「寝てないからだよ。そんなに泣くから」

「ほっとけ」

「ほっとかない」

「うう」

情けない。

「ほら、顔洗って。そろそろ落ち着かないと耳が痛くなるよ」

「うん」

洗面所に押し込まれて、顔を洗った。

「これ飲んで」

コップが差し出される。
手のひらに伝わる温度が熱い。
白湯だった。

「いやだ冷水がいい」

「わがまま言わないの。冷ましながら飲んでるうちに落ち着くから」

言われたとおりにする。
息を吹いて湯を冷ますのが、神経をしずめるのに良いみたいだ。
胃も温まる。

「中耳炎は、子供なら泣くほど痛むんだぜ」

「だぜ、って」

「つまり、そういうことだ」

「なにが?」

「いま俺、遠回しにありがとうって言った」

「そこ、迂回する必要あるの?」

「わからん」

「もう」

桜子は俺の手からコップを受け取り、シンクに置いた。

「ほら、布団入って」

「まだ早い」

「そう言って寝るタイミング逃してたでしょ」

「眠い眠たくない」

頭をかきむしる。
ぼんやりしているのに、頭の芯だけが冴えていた。

「いいから」

背中を押される。

「うーん。眠くない」

「でも寝たいんでしょ。もう神経ピリピリしてないんだから、今なら寝れるよ」

「いや、でも俺、失敗――」

敗北と言い換えてもいい。
苦いものがこみ上げてきそうだった。

「駆は生きてるんだから大丈夫」

「確かに死にかけたことに比べたらマシだけど」

「そうじゃなくて、諦めないでしょ」

「このまま引き下がることはないだろうな」

この事件に取り憑かれてしまったようなものだ。
きっと、懲りずに別の手段を探す。

「じゃあ大丈夫。諦めるまでは失敗じゃない」

「俺みたいなことを言うんだな」

「駆が言ってたんだよ」

それは俺の思想だけど、いつ口にしたか覚えてない。
でも、桜子がそう言うなら、いつか俺が言ったんだろう。

「寝る」

まだやれる気持ちがあるなら、体がついてこなければならない。
頭の中が整理されてきた。

「うん、えらい」

とはいえ、体はすぐに切り替わってくれない。

「……」

何と言っていいかわからないけど、桜子に何かしてほしいと思った。
言葉が出てくるのを待つ間、見つめた。

「もう、いい大人なのに」

桜子が先に布団に入って、掛け布団の裾を持ち上げる。

「おいで」

俺は猫か、あるいは犬かと思ったが、こうしてほしかったんだと理解する。

「すまんな」

甘えている自分が気恥ずかしく、天井を見つめる。

「いいのいいの」

桜子が俺の胸をとんとんと叩いた。

「目、開けてたら寝れないよ」

「いろいろ考えちまうんだよな」

「考えるのをやめよう」

「何も考えないっていうのは難しいんだぞ」

「ちゃんと疲れてる?」

「頭は使ってる」

「働きすぎだね。ブレーキがきかなくなってるんだ」

桜子が俺の手のひらを揉む。
言われてみれば、固まってる気がする。

「あ、ここ傷になってるね」
 
小指の付け根をなぞられる。
ぴりっとした。
テーブルを殴ったときだろう。
何かの摩擦で少し皮膚が切れたのかもしれない。

「あ、舐めるな」

「なおるよ」

「ヒトの口腔内の雑菌の数を知らんのか」

「現実的だなぁ」

「的っていうか、現実」

「じゃあ、やめとこうね」

観念して目を閉じる。

「うんうん。おやすみ」

桜子の指が額を撫でる。

「うーん」

「眠くなるよ」

「眠いが寝付けん」

「喋るからでしょ」

「なんで俺喋ってるんだ」

「もう、黙って」

桜子がのしかかる。
唇が温かい。
思わず目を開けた。
顔がすぐ近くにある。
アイラインの滲んでいるのが気になって、指で擦ってやった。

「だめ、余計崩れちゃうよ」

「そうなのか」

俺にはよくわからない。

「じゃあ寝ようとしないでいいから目は閉じてて」

「寝るために寝るのを諦めて寝なければならないというプレッシャーから」

「だから黙って」

「無限ループってこわい」

桜子の手が目をふさぐ。
唇を合わせられると思考が一瞬止まった。
目の奥で意識が心地よく揺らいだ。

「これはいいかもしれない」

「し」

触れたままで声を発するので、呼気が前歯をくすぐる。
どちらからともなく舌を舐め合っていた。

「そうしててね」

桜子の声が甘い。
ここで何か言うとまた同じ会話を繰り返すことになるので、首だけ動かして了解した。

(好きにしてもらおう)

シャツの裾から手を入れて体を触られる。
こそばゆい。

(うーん、もうちょっと強く)

でも俺は黙っている。

慣れてないながらも触られているとそれなりに興奮するもので、ズボンの前がきつくなっていた。

(これ、下触ってって言っていいもんかな)

「今考えたでしょ」

何と言って伝えていいか考えるのが難しかった。
一度、荒く息を吐いて応えた。

「最後までしていい?」

何度かうなずいた。
間抜けに見えたかもしれない。
律儀に目を閉じている必要も黙っている必要もない。
でも桜子の言うことはなんとなく聞いてやりたいと思うところもあった。

桜子はやりにくそうにバックルをいじっていたが、そのうちベルトが取られた。
難しそうにしていたので、下は自分で脱いでやった。

(俺、何もしてないけど)

性器に指がからむ。
先端がぬるりとしたところにあてがわれる。
期待から唾を飲んだ。

「ん」

見えない分、入っていく感覚に集中する。
動くなとは言われてない。
結局我慢できず、桜子の腰を掴んで滅茶苦茶に突き上げていた。
体を起こしていられなくなった桜子が俺に倒れ込んで耳元で嬌声を上げる。
思わず動きを止めて口を塞いだ。

「桜子、隣、住んでるから」

「ご、ごめん」

「痛くないか」

「もう平気」

「じゃあ我慢して」

桜子が一瞬身震いした。
再開する。
あまり遠慮はしない。
そのまま眠気を塞いでいた何かと一緒に精液も吐き出す。

荒くなった呼吸が落ち着くのを待って、待たなくなった頃には眠りに落ちていた。

次に目が覚めたのは、日が高くなっている時間だった。
まだ横に桜子がいることに安心した。

「おはよー」

「あれ、仕事は?」

「今日はお休み」

そういえば今日は何曜日だったか。

「元気出た? 昨日は荒れてたみたいだったけど」

「ああ、大分落ち着いた」

ニュースを見たいと頼んだ。
桜子が「今度テレビのチューナー買おうね」とか言いながら枕元の携帯に手を伸ばす。
持ち上がった布団の端から入る空気が少し冷たかった。

小さい液晶の中では、俺の予想した中で最悪のケースが再現されていた。

「あ……ああ……」

あの公園。
砂場いっぱいに群生するフェルビッチア。
変異したのか何かしら栄養が良すぎたのか、中央部がこんもりともりあがっている。
遠目に見れば腐った野菜を積み上げてつくったドーム型の遊具だ。

今度は速やかに対応がされたものの、何人かが病院送りになったそうだ。

隣で桜子が息を飲むのがわかった。

言葉が出なかった。
「くそ」とか「ちくしょう」とか、口がそんなことを言いたがってたけど、声はそんな短い単語にもならなかった。

「俺のせいだ」

桜子を人質には取られなかったが、脅しの材料にされた。
何の糸口もつかめないまま、サンプルまで渡してしまった。
敵の実験データもサンプルも、手に入れる手だてがないのに。
正常な判断ではなかった。

「間違えたんだ」

桜子が布団の中で体ごと俺に向き直る。

「俺は判断を誤った」

激しく動揺していたのは事実だ。
わずかでもサンプルがある限り、残り少ない回数でも分析はできたはずだった。
相手が何者かもわからないし、取り返せるとは思っていなかった。
それでも、心のどこかでありもしない可能性にすがってしまった。

一番クールでいなければいけなかった俺が、乱れた主観に振り回された。
論理も根拠もない希望的観測にもならない甘えた期待に流れてしまった。

「俺は――」

「はいストップ!!」

ぱん!
と目の前で手を叩かれ、ついでに大きな声を出され、思わず黙ってしまった。

「何があったか知らないけど、あんなの駆のせいじゃないよ!」

「俺はサンプルを渡しちまったんだぞ」

思わず体を起こした。
桜子が慌てて体を隠す。

「そのサンプルっていうのがあれば、一晩であんなにたくさん養殖できるの?」

「養殖って魚じゃないんだから――」

「増やすんだから一緒!」

こうなると勝てない。

「で、どうなの? 駆がちょこっとけずった葉っぱの一部は、科学の力さえあれば一晩であそこまで増やせるの?」

「増やすことは――持ち帰った部位にもよるが、短時間では不可能だ。
しかし最初は、いきなり生えてたじゃないか。成長した株だったんだぞ」

「いきなり生えることってあるの? あんな大きなものが」

「……ないな」

「あんなの、そもそも生えてたかもわからないよ。大きくなってから植えたのかもしれないじゃん」

わざわざ植える意味は、奴らにはある。 

「今は現状の責任の所在を求めても無駄ってことか」

「ごめん、熟語いっぱい使われると何言ってるかよくわかんない」

「いや、頭が冷えた。助かったわ」

「あたしは何も出来ないかもしれないけど、味方でいるよ」

手を握って、はっきり告げられた。

「俺にはお前がいるか」

気持ちは嬉しかった。

「そう。あたしがいるよ」

そんなやりとりの中で閃いた。

「お前、体はもういいのか」

「だから平気だって何度も――」

「そうじゃなくて、性衝動や判断力とかそういったものは」

「ふ、普通なんじゃないかな」

桜子は戸惑いながら答える。

「ここに来てから何度も性交渉があったが、あれは正常な欲求の上でのことか」

「な、何よいきなり」

桜子が怪訝そうにする。
怒られても仕方ない。
誰がどう聞いたってセクハラだ。

「大事なことなんだよ。答えてくれ」

「あ、あたしがおかしかったのは最初の一回だけだよ……あとは、その……」

思ったとおりだ。
二回目から先は、毒のせいとは思えない余裕があった。
飢えて狂いそうな危機感とは無縁の行為だった。

「桜子、お前の言うとおりだ。お前はいつだって正しい」

「なに? あたしいいこと言った?」

「お前はフェルビッチアの匂いをわずかに感知できる距離にいただけで、症状は軽微で済んだ」

「うーん……そうなの?」

毒の強さや即効性は、あの中継を見ていればわかる。
桜子の意志が強かったからといって簡単に俺のところに来れるとは思えない。
桜子に働いたのは微量の毒だ。

「何も株そのものから薬を作る必要はなかったんだ」

「ねえ、話が見えないよ」

「お前、俺の知り合いのドクターに会ってくれ。大丈夫だ。あの人は信用できる」

「やだ。ここから離れるのは怖いよ」

「じゃあ、ここに連れてくるから血液を提供してやってくれ」

「検査? あたしもう治ったよ」

「血清が作れるかもしれない」

少し怯えたのがわかった。

「私の血で、そんなことができるの?」

「その可能性はある。予防は難しいかもしれないが、既に中毒を起こした人の治療には役立つかもしれない」

桜子の喉が上下したのがわかった。

「もちろんあの群生体をどうにかしない限り根本的な解決にはならないが、それでも時間稼ぎにはなる」

「時間稼ぎ? またどこかに行くの?」

「ああ。俺だけでフェルビッチアに対抗することはなかった」

桜子は泣きそうな顔になる。
俺が採集に出ることがわかっているんだろう。

「植物の生存競争を利用する」

彼女は涙を落としてうなずいた。

知人のドクターは俺の打診に二つ返事で了解してくれた。
桜子の採血を済ませて、車を借りて家に送り届けた。

「ありがとうございます。助かりました」

自宅まで送ってもらい、頭を下げた。
これで採取に行ける。
心当たりはある。

「いいって。僕も助手の女の子が出てこれなくて困ってたしね」

ドクターは寂しくなった後頭部をなでながら笑う。
からっとした人だ。

「この件、良くないものが絡んでるんでしょ?」

言うべきか迷ってうつむいた。
味方は作りたいが、誰が敵に回るか、既に敵であるのかわからない。
この人は信用しているが、まだ情報は拡散しない方がいい。

「まだ話せないってことね」

顔を上げた。

「僕は目的のものをもらったからね。戻って作業に入るよ。
 彼女は優秀だから、早く出てきてもらわないと困るしね。
 科捜研に行った友達が僕のところにお茶を飲みに来るだろうけど、世間話はするかもしれないね」

しかるべき部署に、うまく情報が渡る可能性を示唆していた。

「ありが――」

ドクターが手をかざして制する。

「なんのことかなぁ。ま、落ち着いたらお茶でも飲みにきてよ。じゃあね」

車を見送って、部屋に戻った。
まだ桜子の匂いが残っている。

管理人にしばらく留守にすると連絡した。
バックパックに荷物を詰める。
目的地は太平洋に浮かぶ離島だ。
港でチケットを受け取れるよう、フェリーの手配をした。

そこは、曰く付きの島だった。
今は無人島だが、釣りスポットであるらしく、人の行き来はある。
博士号を取る以前、文献でこの島の記述を見たときにはにわかに信じられなかった。

(おい、カケル、見てみろよ。日本には男のアマゾネスがいたらしいぞ)

と、年上の学友が笑ったのを覚えている。
アマゾネスといえば、ファンタジーや神話に出てくるアレだ。
他所で種をもらって、生まれたのが女児なら育てるというアレだ。

その島には、男しかいなかった。
女も伴って移住したのだろうが、何世代にも渡って定住することはできなかった。
妻帯者は移住後、妻と離別した。
女児は大きくなるまでは生きられなかったという。
人口維持のために、外から女子供を連れて来ればよかったのだろうが、そうしなかったようだ。

男たちは病的に「純潔」に囚われ、子供を作らなくなった。
既に子供を産んだ女は汚れたものとして殺されてしまった。
女児は成長すれば、同じ年頃の男と関係を持つようになる。
そうなると、やはり殺されてしまった。

島から女が淘汰されるのに、二十年とかからなかっただろう。

読み進めていて、笑っていられなくなった。
そいつは大飯喰らいだったが、その日のランチはベーグルにコーヒーだった。
痩せてるのにさらに痩せようとしてるモデル志望の女の子みたいだった。

俺の興味を引いたのは、その後の記述だった。

島で病気が蔓延した。
島の男たちは皆、肉体は健康でも一様に性的なものを排除した。
女を排除した後、男同士でお楽しみだったかというとそうでもなく、同性間の性交渉も全くなかったという。
(これは、島民に同性愛者がいなかっただけという可能性がある)

島民が絶えて数十年後、調査が入った。

墓地の地面から、枝というには有機的すぎる、巨大なおしべのようなキノコが生えていたそうだ。
墓を掘り返すわけにはいかず、調査隊は集落であった場所へ移動した。
集会所のような大きな建物には、突然死したと思われる男たちの遺体が埋葬されず安置されていた。
建物の付近には、野晒しの遺体。
民家の台所等の状態から、突然死だと推定された。

「純潔」を守って死んだ男たちの遺体は、高温高湿度という環境下にあったにも関わらず、完全なミイラとなっていた。
何より特徴的だったのが、男根の先、尿道口から伸びた赤みを帯びた棒状のキノコだったという。

例のキノコが採取できそうな場所――集落があったという場所――の位置を記憶から引っ張り出す。

(そのキノコの菌が、俺の思ったとおり作用するとしたら)

「おう、兄ちゃん。見えてきたぞ」

データと仮説の世界から現実に戻された。
目を上げると、二人連れの釣り人が立っていた。
なんとなく促されて、デッキに出てみた。
風が湿っぽく、しょっぱい。

「そのカッコで釣りじゃないなんて、若い人はよくわからないねえ。何しに行くんだい?」

小太りのおっさんが俺のなりをまじまじと観察してため息を漏らす。

「あの島で山菜採りっつうのは聞いたことねえな!」

頑健なおっさんが笑った。

「フィールドワークですよ。国内でも本州から離れると生態系がなかなか興味深い」

「なんだ、兄ちゃんは学者先生かい。若えのに大したもんだな」

「いや、先生ってほどの立場では」とか「歳は関係ないです」とか返事をした方がいいのか迷っていると、小太りが会話を継いだ。

「はあ。なんだか大変そうだねえ。ま、波が強いし天気も変わりやすいから気を付けてね」

言われてみれば、さっきから船の揺れが強くなっている。
髪をなぶる潮風も顔を重たく叩きつけてくる。

(長居はできない)

頭の中に島の地図を開く。
集落のあった場所は、船着き場から歩いて行ける距離だ。
釣り場とは離れているせいか、島民が絶えてからの感染者の報告はない。
それでも油断は禁物だ。
バックパックから胞子対策のガスマスクを出した。

桜子は無事に家に帰した。
少しの間、時間を稼げるように手も打った。
あとは俺が結果を出すだけだ。

かつては人が行き来していたであろう道の跡は獣道のように荒れている。
左右の道端から生い茂るシダを、拾った枝で払いながら集落のあった場所を目指す。
マスクで鼻と口を覆っているせいか、息が上がるのが早い。
すぐに汗だくになった。

しばらく行くと、荒れ果てた納屋を見つけた。
ボロボロの板壁に農具が立て掛けてある。
近寄って見ると、黒いシミが確認できた。

(血痕か)

文献のとおりのことが起こっていたとしたら、この農具は誰かの命を奪った凶器だ。
胸が悪くなるのを抑えながら、集落の中心に向かった。

(さすがに死体は引き上げてるよな)

何軒か民家を覗いてみたが、めぼしいキノコは見当たらなかった。
死体が安置されていたという集会所らしき建物に行ってみたが、もぬけの殻だ。
死体がなければ、目的の物にも出会えない。
気は進まないが、死体のある場所で探すしかない。
集落の首長が執務に使っていたであろう、他より立派な机のそばの本棚を探る。
期待どおり、文献より詳細な地図があった。

(墓地に行くしかない)

墓地は、切り立った崖の上にあった。
先祖の霊が、海からくるものを見張ってくれるということだろうか。
そのへんの考察は人類学者に任せよう。
俺の仕事は別にある。

幸い、墓が掘り起こされたようには見えなかった。
土饅頭のそばに立ててある、墓標らしき板切れに手を合わせる。

(ごめんなさい。ここを調べさせてください)

死者と対話できるとは思っていない。

(俺は女達を助けたい。お願いします)

でも、眠りを妨げることに対してはすまないと思ったから、祈った。
俺は無宗教者だけど、原始的な信仰心のようなものがそうさせた。

地面からは墓標の数だけキノコのようなものが生えている。

(テングタケ類に寄生したヒポミケスキンに似てるな)

その形態は率直に言えば男性器に酷似している。
アホな連中なら「ディルドーだ! ディルドーだ!」と大喜びするだろう。
一応、講義に使えるかもしれないので何枚か写真を撮っておく。
何人の学生が笑わずに最後まで聞けるだろうか。

集落の納屋からシャベルを失敬してきた。
柄が少々ぐらついているが使えないこともない
シャベルを地面に突き立て、足を乗せて体重をかけたところで何かにぶつかった。

(墓にしては浅すぎないか?)

埋まっているものを極力傷つけないよう、慎重に掘りながら土を払う。
マスクと顔の間に汗がたまる。
湿気で息苦しいが、マスクを外すのは不用心だ。
徐々に埋まっているものの縁が出てくる。
うずくまった人間が入りそうなサイズの桶だった。

縁の釘は打ち付けが甘い。
その隙間から、キノコは伸びていた。
生き残った住民のわずかな体力で埋葬しようとしたが、満足に処置できなかったのかもしれない。

蓋のふちにシャベルをひっかけて開けた。
中の遺体は文献どおり、腐乱せずミイラ化していた。
足首を交差し膝を抱えたミイラの股からキノコは生えていた。

背中を冷たい汗が流れた。

ふっとあたりが薄暗くなる。
上空を分厚い灰色の雲が覆っていた。
雲の中では稲光が走っている。
にわかに雨が降り始めた。

(ここの気候は変わりやすいんだったな)

帰りのフェリーにはまだ時間がある。
今は採取に集中する。
キノコを引っ張ると、枯れて朽ちた男根がくっついてきた。

「うぅ」

股間がひゅっと寒くなった。
手袋ごしに伝わる皮膚のような感触が気持ち悪い。
可能な限り採取して、ジッパー付きのビニール袋に入れていく。
その間にも雨は勢いを増していき、

(これだけあれば、あの群体にも効きそうだ)

近くにシャベルを突き立て、バックパックにビニールを収める。
荷物を背負い直して顔を上げた瞬間、轟音と共に視界が真っ白になった。

――――――――――

「ありゃあ、また来なさったですか」

懐かしい、訛りのきついじいさんの声だった。
薬草を煎じる匂い。
体が動かない。

「駆さんもやれませんの! ひゃひゃひゃ」

相変わらず声がでかい。

「うるせえ……」

「すみませんのう。わしゃ歳ですからな、耳が遠いんですわ」

(聞こえてんじゃねえか)

「目は開けられますかいな」

目を開ける。
思ったとおり、天井にはむき出しの梁。裸電球。

「はぁー、大きゅうなられましたな」

元気いっぱいのミイラみたいな、神様を自称するじいさん。

「俺、また死んだの?」

つい、子供のように聞いてしまった。

「まだ生きとりますわ。海が冷とうて助かりましたな」

俺の体は低体温状態にあるということか。

「しかしあなたも無茶をしなさる」

いろりの鍋の中を俺に見せる。
浮き沈みしながら海面を漂う俺の体があった。
ズボンのすねのあたりに血が滲んでいる。

「あなたぁ雷に吹き飛ばされたんですわ」

崖下の岩場に叩きつけられていないことを祈る。

「毒の次は雷かよ……」

「悪運が強いんでしょうな。大きな荷物のおかげで、沈まずにすんどりますわ」

バックパックの中には、空のペットボトルが入っていた。

「俺、戻らなきゃ」

「まあ待ってつかあさいや。あなたの体を見つけてもらってからでもええじゃろうて」

鍋の中の俺が、釣り場となっている桟橋の近くに流れていく。
俺の体を指さして、フェリーで会った釣り人が何か叫ぶ。
一人はフェリー乗り場の建物に駆け込んで、すぐ戻ってきた。

「おほほほほ。これは良い人たちですのう。あなたを助けてくれよりますわ」

小太りのおっさんと頑健なおっさんのチームプレーで、俺の体は引き上げられ、蘇生措置を施されている。

(肋骨折れてませんように)

「そろそろ戻りなさい。あなたを待っとる人がおりますわ」

じいさんが目を細める。
もっと話したい気もするけど、ここは生きる人間の留まるところじゃない。

「駆さん、あなたぁ熱心なのはいいですが、無茶はもういけませんよ」

「うん。ありがとう」

「もうあなた一人の体、命じゃあないですけぇの」

じいさんが俺の頭に手をかざす。
温かいと思った。

――――――――――

視界がブラックアウトする。
同時に水が喉をさかのぼって口から吹き出す。
激しくむせた。

「おう! 兄ちゃん大丈夫か!」

咳き込みながら、なるべく大きく息をする。
意識が戻ってくると、すねの痛みが襲ってきた。
頭を持ち上げて確認しようとすると、小太りのおっさんに肩を押さえつけられた。

「見ちゃだめだよ! 気分が悪くなるかもしれないからね」

「兄ちゃん、ドクターヘリが来るからな! しっかりしろよ!」

「荷物! 荷物は無事ですか!」

肩を押さえる袖をつかんで叫んだ。
それだけはどうしても聞きたかった。

「携帯は……ああ、これは水没しちゃってるね。他はびしょびしょだけど大丈夫みたいだよ」

礼を言って目を閉じた。
気絶できれば楽だろうが、痛みがそうさせてくれなかった。

搬送された病院で、俺のすねの傷は左脛骨近位端部骨折だと知らされた。
医者に負傷の経緯を説明すると、よく軽傷で済んだと驚かれた。
出血は岩場で切ったのが原因だそうだ。

「それは困る。入院なんかしてられない」

看護師に検査用の血液を採られながら抗議した。

「だめですよ。感染症を起こすかもしれないし数日はいてもらわなきゃ」

優しく却下された。

「でも仕事が」

「それに今は麻酔が効いてますけど、切れたら脈打つように痛みますよ。しばらく松葉杖だって必要なんですから。そんな状態で仕事ができますか」

優しく優しく、ぴしゃりと却下された。

「じゃあ、電話を貸してください。どうしても連絡を取りたいんです」

折れるしかなかった。

受話器の向こうでドクターは少し怒り、少し笑った。
待っている間、キノコの処方をメモにまとめた。
日没後、仕事を終えたドクターが面会に来た。

「本当にいろいろすみません。頼めるのがあなたしかいなくて」

「やだなぁ。人の使い方まで学習してるのかい」

ドクターはうなじの汗をハンカチで押さえる。
急いで来てくれたのだろう。

「そんな、使うだなんて――」

「ちょっとからかってみただけさ。それで、僕はそのキノコをあの群体に使えばいいのかな」

「ええ、このとおり。こいつをフェルビッチアに」

ドクターが渡したメモに目を落とす。
喉仏が上下するのが見えた。

「これ、前例は?」

「ありません。でもこのキノコの作用を裏付けるものなら見てきました」

「この歳になって冒険するなんて、僕もまだ若いなぁ。論文の共著者には僕の名前を載せてくれよ」

引き受けてくれたらしい。

「ありがとうございます。何て言ったらいいか――」

ドクターはビニール袋を掲げて、不思議そうな顔になった。

「そうだ。このキノコ、名前はないの?」

「ないですね」

「じゃあ、君が名前をつけるといいよ」

「えっ、俺がですか?」

「うん。だって言い伝えだったものを、君がリアルにしたんだよ」

「どうしよう。俺、いいんですかね」

「いいのいいの! ダメなら学会から何か言ってくるから」

企業勤めなら定年間近という歳なのに、子供みたいな笑顔だった。

事件の結末を、俺は伝聞や報道による情報を相互補完することでしか知ることができなかった。
何とも残念である。

桜子が見舞いに置いていったミックスナッツをかじっていると、ドクターがやってきた。
ひととおりあいさつをして、事の顛末を聞いた。

「そしたらさ、こんもりしてたフェルビッチアの根本から、何が出てきたと思う?」

ドクターは興奮気味で、身振り手振りを交えて忙しく喋る。

「突然変異にしても、栄養が要りますよね。精子の蛋白質だけじゃ足りない。肉の塊のようなものですかね」

「そう! そうなんだよ! 心の準備ができてなかったから引っくり返っちゃったよ」

「何だったんですか?」

ドクターは他の患者の様子を気にした後、声を潜めて

「男の死体だよ」

と明かした。

「そんな。身元は?」

うっかり近づいた男が、その臭いをモロに嗅いで嘔吐し、吐瀉物で窒息したのなら、可能性はある。

「それは警察の仕事だからなぁ。でも格好なら覚えてるよ」

その特徴は、俺を脅迫したあの男のものだった。

「それが不思議なんだよね。こう、ズボンと下着を下ろしてさ。手には包丁。首は血まみれ。それで満面の笑みで死んでたんだもん。怖かったなぁ」

あの男は俺を脅迫してサンプルを回収した後、死んでいたということになる。

「なんでだろうねえ。遺体の傍には割れたシャーレがあったんだよ。それから体液も。これは発見時の格好からして精液だろうね」

「あの男はフェルビッチアを使った人口増加計画に酔ってましたからね。もしかしたら、俺と会ったときは既におかしかったのかもしれない」

どろりと濁った眼を思い出して、嫌な気分になった。

「しかし、死ぬ必要あったのかなぁ」

「俺にはわかりませんよ」

「僕もわかりたくないなぁ」

「あいつは犯罪者です。そんな奴の気持ちはプロファイラーに任せましょう」

「うん。君は植物学者だ」

「あ、ドクターも豆どうです? 美味いですよ」

と、ナッツの容器を向けた。

「あの子の差し入れかい?」

つまみながらドクターは尋ねる。

「そうなんです。もう退院日も決まったのに毎日来るんですよ」

「それは、だって君、ねえ?」

「どういう意味ですか」

「ビールが欲しくなるね」

話を曲げられた。
でも俺は気にしない。

「退院したら飲みに行きましょう」

「しかし君も丸くなったねえ。昔は人付き合いなんてガラじゃなかったもの」

ドクターが目を丸くする。

「そうですか?」

「そうだとも。ま、一緒に働けてよかったよ。ドクター」

「俺もですよ。ドクター」

退院日は間近。
それからは地獄のリハビリ生活だ。

事態が収束して、俺はひっそり表彰された。
その記事は新聞にも載った。
桜子からは「スクラップしといたよ!」とメールがあった。

翌日にはみんな俺のことなど忘れてしまう。
でも、俺のしたことはずっと残る。
ドクターによると例の組織は公安が動いたとかで、詳しいことは教えてもらえなかったが、もう心配ないそうだ。

それからしばらくは、事後処理に追われた。
退院から一か月後、桜子と遅い祝杯をあげることになった。
いつもの居酒屋じゃなくて、桜子の好きなカジュアルフレンチだ。

「リハビリはどう?」

桜子は個室の壁に立てかけた松葉杖に目をやる。

「順調かな。ゆっくりだけど」

激痛で叫んでたなんて言えない。

「それで、例のキノコにはなんて名前つけるの?」

「まだ論文も書いてないし、学会から返事ももらってないのに。気が早いよ」

「だって凄いことじゃない。決まったらお祝いしなきゃ」

「うーん」

名前の候補はあるが、桜子にはあまり言いたくなかった。
その毒の効果から、ネットスラングにちなんで「処女厨化草」とつけようと思っている。
正直言って「冬虫夏草」のパクリみたいな名前だしダジャレだし、己のネーミングセンスのなさに情けなくなる。

「あれ、ワインは頼まないのか」

「うん……」

「珍しいな。具合でも悪いのか」

「そうじゃなくてね、しばらくは控えた方がいいのかなって」

「健康診断に引っかかったか。見たところ健康そのものだけどな」

「うーん」

当たり障りのない話をして店を後にした。
いつもなら飲み直しに二軒目に行くところだが、桜子の体調が気がかりだった。
風に当たりながらタクシーを待った。
今日の桜子は、うつむいていることが多い。

「やっぱり元気ないな。言ってくれれば日を改めたのに」

「今日はごめんね。実は心配なことがあって」

「どうした。言ってみろ」

街灯に照らされた頬が白い。

「こないの」

「誰が」

「誰がっていうか、生理」

桜子は消え入りそうな声で言う。

「おおう」

何と言っていいかわからない。
覚悟がなかったわけじゃないが、頭を殴りつけられたような衝撃はあった。

「びっくりしないんだね」

視線に少しの非難が混じっている。
多分、正解のリアクションなんてない。

「やることやってたしなぁ」

「どうしよう」

「まずは検査だな」

「うん……」

今の「どうしよう」は行動へのアドバイスを求める「どうしよう」じゃない。
途方に暮れてしまいそうなのだ。
察しの悪い俺でもわかる。

「あの、俺は喜んでいいのか?」

桜子が顔を上げた。

「お前さえ良かったら、の話なんだが」

指針のひとつとして、俺の希望を伝える必要があるだろう。
もっとも、今日はそのつもりで会う約束をした。

「結婚してくれないか」

少々思い描いていたタイミングとは違うが、大筋では予定どおりだ。

「妊娠してたら産んでほしいし、そうでなきゃいずれは俺の子を産んでほしい」

「うん。そうする。あたしもそうしたい」

ちょうどタクシーが来て、一旦俺の家に寄ってもらうことにした。
車内では無言だった。
自室の玄関に桜子を待たせて洗面所に飛び込んだ。

「うわあああああああああ」

うっかり松葉杖を放り投げたものだから、悲鳴を上げてしまった。

「うわあああああああああ」

歓喜とプレッシャーと痛みから、声を出さずにいられない。
服装はこのままで失礼はないはずだ。
念のため髪はもう一度整える。

「うわあああああああああ」

もはや何が何だか。
めんどくさがって放置していた無精ひげも剃る。
それくらいの判断力は残っていた。

「お、親父さんに殴られに行こうか……」

桜子は呆れて笑った。運転手にも笑われた。
俺が身繕いしている間に落ち着いたらしい。
俺のほうが慌てていた。

「所長にも報告したいな」

「施設の?」

「ああ。あの人が父親みたいなもんだからな」

留学中に面倒を見てくれた家にも手紙を出そう。
肉親はいないけど家族はいた。
車に揺られながら、全てが幸せだと思った。

―――――数年後―――――

朝、重みを感じて目を開けると、娘のすみれが俺にまたがっていた。
出掛ける準備は万端ということだろうか。
パンパンに膨らんだリュックを背負っているせいで幼児のくせに重い。

「パパ、おきて! おでかけ! おでかけでしょ!」

そういえば植物園に連れていく約束をしていた。

「お、おう」

「おひげきらい!」

頬をつまむというよりつかまれる。
娘の小さく、薄い爪が刺さる。

「大丈夫。お顔洗うからきれいきれい」

すみれを脇によけて、ざらつく頬を掻きながら食卓についた。
桜子とすみれはもう食べ終わったらしい。

「いただきます」

手を合わせる。
桜子はココアをいれて俺の正面に座った。
本当はコーヒーを飲みたいらしいが、しばらくはココアで我慢するそうだ。
すみれは図鑑を広げて今日の予習をしている。

「すみれに怒られたぞ。言わせたな」

「だって駆、すみれの言うことなら聞くんだもん」

「桜子の言うことだって聞いてるだろ」

「二人で言った方がもっと聞いてくれるじゃない」

「あー、そうね。俺の負け俺の負け」

桜子がお腹をさする。
まだ目立たないが、気になるらしい。

「すみれがお腹にいるときも言ったが」

「うん?」

「カフェインは過剰摂取じゃなければ問題ないそうだ」

「んー、でも気になるから。ココアも好きだし」

「そうか」

「おいしいよ」

すみれが物心ついてからは母娘で結託するようになった。
二人目は男の子だ。俺の味方にする。

「すみれってすごいの。買ってあげる本、かたっぱしから全部覚えちゃう」

「そこは俺の子だな」

俺でも親馬鹿になる。

「やっぱり天才なのかなー。普通の人はあたしだけ? この子はどうなるのかな?」

「元気でいてくれたら何だっていいよ。お前の子だ、芯の強い優しい子になる」

「普通も悪くないってことね」

「普通上等。普通最高」

最高なのは桜子だ。
すみれが図鑑を抱えて寄ってくる。

「おはな! いっぱいおぼえたの!」

「これに載ってるの全部か」

「うん!」

「すごいなぁ。すみれはすごいなぁ」

すみれの相手をしている俺は、IQが半分くらいになったように見えるんだろう。

「おはなのところにいったら、パパにおしえてあげる!」

と、俺の膝に乗る。
今の桜子には「赤ちゃんがびっくりするから」と遠慮してしまうらしい。

「この賢さは俺似だな」

「モテるところはあたし似だよ」

「え、モテてるの。ていうか桜子、モテてたの」

俺が日本を離れてる間に。
多感な思春期に。

「でも全部断ってたからあんまり意味ないよね」

「で、その、すみれは――」

「幼稚園で告白されてるみたい。モテかわジーニアスの愛されガールだもんねー」

「ゆうとくんがねー、およめさんになってほしいんだってー」

まんざらでもなさそうなのがカンに障る。

「ゆるさん。ゆるさんぞ。それになんだそのモテかわ何たらとかいうのは」

「なにお父さんみたいなこと言ってるの」

「俺は断じてお義父さんみたいな頑固なおっさんにはならん!」

「じーじ?」

桜子の親父さんは俺を殴らなかった。
評判の割に男の影がないこと、縁談をことごとく突っぱねていたことから、桜子の気持ちが俺にあることを前から察していたそうだ。

(それでも挨拶に行ったら散々脅されたな)

「ああ、昔ちょっとな。でもすみれが可愛いからパパは無罪だ」

「しょうそ! むじつ! ふきそしょぶん!」

「もうそんな言葉を覚えたのか。えらいなぁ。すみれはえらいなぁ」

そんな親父さんも、すみれに会わせたら喜んでくれた。
俺も孫を見たら――いや、まだ先が遠くて想像できないな。

「じゃ、今日はゆっくりしててくれ。夕飯は買って帰るから」

「うん。いってらっしゃい」

玄関を出て、すみれと手をつないだ。
小さくて熱い、餅みたいな手だ。

(「ゆうとくん」とやらがどの程度本気か知らんが、俺は手ごわいぞ)

いつか来る決戦の日を思って少し意地悪な気分になった。
桜子の編んだおさげが、すみれの肩で柔らかく揺れている。


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