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そんなことより野球しようぜ!(1)

 中学の同級生にはあまり会いたくない。会いたくなかったが、電車を一本ずらしたばかりにこうなった。

「おー、伊織ひさしぶりじゃーん」
「お、おう」
「その制服はあそこか。野球しかしてなかったのによく受かったな」

 やっぱりその話か。特待生を辞退してから、死ぬ気で勉強したんだよ。

「仕方ないだろ。投げられないんだから。普通の学校受けるしかなかったんだよ」
「あ……悪い」

 電車がホームに滑り込む。そいつは気まずさに負けたらしい。

「ま、あれだ! がんばれよ!」

 ちゃっ、と手を上げると、逃げ込むように車両に乗っていった。

(何をだよ)

 人の少なくなったホームで舌打ちをする。肘は治ったと言われている。でも、全力では投げられない。一試合投げ抜くこともできない。

(何をがんばれって言うんだよ)

 学校に着いた。朝のHRまで時間がある。
 校門を過ぎたところで、ごつい手が肩を掴んだ。

「やあイオリン! 今日は一際浮かない顔じゃないか!」
「まあ、例のあれよ」
「あ」

 俺の進路の話題を「あれ」で察してくれる。さすがテリー。照井が訛ってテリー。伊達に小学生からバッテリー組んでない。

「まあいじけてないで元気出してよ。野球やろうぜ!」

 こいつは軽いキャッチボールや遊び程度のノックでも、野球と言う。俺に「野球」から離れたと思わせたくないんだろう。でも、選手として戻ってこいと言うことは一度もなかった。
 グランドの隅っこで、無言でキャッチボールをする。この時間は嫌いじゃなかったし、テリーもどこかほっとしているようだった。
 フェンスの向こうから視線を感じた。球がすっぽ抜ける。暴投。

「――あ、悪い」

 小走りでボールを拾いに行くテリーをすり抜けて、俺の目は一人の女子をとらえた。気のせいじゃない。ずっとこっちを見ている。

「ハロー!」

 女子の肩が跳ねる。まさか話しかけられるとは思っていなかったらしい。朝なのにハローだし。

「君も、野球に興味があるのかい?」

 よく通るいい声だ。彼女は動けないでいる。俺でも驚いた。彼女もびびっているに違いない。
 時計を見ると、もういい時間だった。

「テリー、彼女引いてるから。行くぞ」
「ちぇー」

 靴を履き替え、教室に向かう。

「お前何やってんのよ。俺はびっくりしましたよ」
「なんでよ。いいじゃん。みんなで野球やればいいじゃん」
「そりゃそうだけど、ちょっと見境なさすぎるよ」
「……」
「どしたんよ」
「あの子」
「ああ、あの子」
「どっかで見たことない?」
「知らん」

 女子なんて同級生くらいしか接したことない。

「俺のアーカイブに引っかかるってことは、絶対どこかで会ってる!」
「あー、もー。どっかのチームの応援にでも来てたんじゃないのか」

 そうかなぁ、とテリーは不服そうに頭を掻いた。



 転校生が来た。今朝の女子だった。

「――晶です。よろしくお願いします」

 やっぱり思い当たるフシがない。彼女が頭を下げると、肩下の髪が素直に流れる。切れ長の目が伏せられるとマネキンみたいだった。

(こんな子、見たら絶対覚えてるって)

 息を止めて彼女を見ている間、名字を聞き逃したことに気付いた。

「はい先生! 俺の隣に謎の机が出てるってことはアレでしょ! 彼女、ここに来なさいってことでしょ! ウェルカム!」
「そ、そうね。照井君。あー、まあ、仲良くしてあげてね」

 先生、あまり仲良くさせたくなさそうに見えます。



 半月経つ頃には、晶は馴染んでいた。女子の群れ社会に素早く順応している。それが俺には不自然に見えた。

「おもしろくねえ」

 自分自身、淡々と体育の授業をこなしながらぼやいた。

「なんで? 女子の体操服がブルマじゃないから?」
「いや、あいつ」

 女子の集団に目をやる。少し背の高い晶が目立つ。

「ああ、晶ちゃん。いい子だよ」
「おもしろくねえ」

 何がおもしろくないのか、自分でもよくわからなかった。

「あいつ、たまに目が笑ってなくないか。妙に冷めてるっつうか」
「気のせいじゃない?」

 テリーが首をひねる。

「ま、伊織がそう思うのも無理ないかもね」
「あ? さっきまであいつの肩持ってたのに?」
「晶ちゃん、手抜きしてる」
「手抜き?」
「あの体見てよ」
「女子にしちゃ背は高いけど、でも普通だろ。あんなの珍しくない」

 晶くらいの体格の女子なら、中学にもいた。

「あれ、筋肉だよ。皮下脂肪があるからだまされるけど、相当絞ってる。胃のあたりがプニっとしてないでしょ」
「どうなってんだよ。お前の目は」
「それにあのケツと大腿筋。もっと瞬発力が出るはずなのに、ずっと軽く流しっぱなしだね」
「お前、そこまで見てたんか」
「本気出してないわけだから、伊織が気に入らないって思うのも無理ないかもね」

 テリーの観察眼に戦慄しているうちに授業が終わった。

「で、あのケツはお前の記憶にはございましたか」
「ございませんね」
「でもあの顔は見覚えあるんだろ」
「ありますね」

 晶が視界に入ると、なぜかイライラした。何か後ろめたい気分になった。俺は晶に何もしてない。

「でもいいよね。ああいう生意気なボディーライン。俺はああいう美人のいいケツを思い切りスパーンってひっぱたくのが夢なんだ。そして涙目で怒られたい」

 唐突に夢を打ち明けられて「具体的過ぎて引くわ」と返すのが精一杯だった。



 休日、自転車でCDを借りに行った帰りに気まぐれでバッティングセンターの前を通った。肘を故障してからあまり通りたくなかったけど、そういう気になった。硬球を真芯でとらえるいい音がしていた。音の間隔からして、一人が打っているらしい。
 別に興味があるわけじゃない。自販機を使いたいだけだと、自分に言い訳しながら自転車を止めた。なんとなく気配を殺してケージに近づいた。硬球で、一番速球が打てるところだった。
 打者は右打ち。こちらに背を向けている。リラックスした大きな構えに見覚えがあった。化け物じみたスイングの速さにも、見覚えがあった。馬鹿の一つ覚えみたいにフルスイングしかしないところにも、覚えがあった。

「すごいだろ、アキラちゃん」

 店主らしいおじさんに声をかけられた。

「アキラ?」
「おじさんね、何度もスカウトしてるの。草野球のチーム。でも、いっつも振られちゃうんだよねえ」
「よく来るんですか?」
「うん。君みたいな歳の近い子がいれば、あの子も楽しいと思うんだけどねえ。どう? 君も」
「俺も遠慮しときます。実は去年故障しちゃって」
「ああ、それはつらいねえ」

 一ゲーム終わったらしく、アキラがバットを置く。ヘルメットを脱ぐと、納められていた髪が重たく背中に落ちた。女だった。
 彼女はトイレに行き、すぐベンチに戻ってきた。手を洗ったらしい。鞄をさぐって小さな裁縫セットとライターを出した。

(ああ、豆ができたのか)

 うつむいていて顔が見えない。彼女に興味が湧いたけど、それを悟られるのは嫌だった。でも、誘惑に負けたので彼女がもう1ゲーム打つのを眺めていた。

(すげえなこいつ)

 投げたい、と思ってしまう。なんて女だ、と口走りそうになるのを飲みこむ。
 おじさんにはなんとなくお礼を言って帰った。
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そんなことより野球しようぜ!(2)

 その夜、珍しくテリーから電話があった。

「イオリン、やっぱ俺って天才! すげえ! ジーニアスっていうかマーベラス!!」
「なんだよ。わざわざ電話してくるってことは余程アレなんだろうな」
「そりゃもうアレですよ!」
「だから何よ」
「俺、思い出しちゃったもんね! 晶ちゃん、小学生のとき対戦してた!」

 アキラなんて名前の奴はどこにでもいる。明に晃に彰に亮。

「あれは女子だろ」
「だから、あのアキラが晶ちゃんなんだって!」
「だからどのアキラよ」
「練習試合のとき審判に怒られたじゃん!」

 練習試合、代打で出てきた打つ気満々だった奴を思い出す。当時の俺より背が高かった。

「正直思い出したくないわ……」
「一番いい球をホームランにされちゃったもんね」

 テリーの頭の中では、悔しいはずの失点シーンが再生されているはずなのに楽しそうだった。

「うるせえ」

 ――逃げんな! ちゃんと勝負しろ!

「あのときはさ、外に続けて外れちゃったからアキラ怒ってんの」
「あー、思い出してきたかも」
「で、俺がちょっとのけぞらそうと思ってインハイに構えたらもってかれたの」
「あー……あいつ、女だったんか……きれいな顔してるとは思ってたけどさ……」
「まあ、髪も短かったしね。日にも焼けてたし」
「あいつすぐ引っ越したよな」
「そこからはもう、伊織の記憶と一致するはず」

 悔しかった当時の俺とテリーは、忘れないために名前を聞いておこうと思って話しかけた。話してみたら案外気が合ってしまった。

 ――なんでそんな打てるのに補欠なの?
 ――守備がアレだからね!
 ――胸を張って言うことか。
 ――大丈夫。練習する。
 ――じゃあ、次は上手くなってこいよ。
 ――それは無理かな。
 ――なんでよ。
 ――今度引っ越すんだ。県外。
 ――そっか。でも野球やめんなよ。勝てば上の大会でやれる。
 ――うん。
 ――またやろう。勝ち逃げは許さん。

「え、ちょっと待って。俺が中学の間追い続けてきたのは、男の背中じゃなくて女のケツだったの?」
「そう。いいケツ」

 頭を抱えた。急に自分が軟派になったように錯覚した。

「お、俺、別にあいつのこと好きだったとかそんなんじゃねえぞ!」
「男だと思ってたしね」
「それも当り前のようにな」
「で、どうするよ。治ってるんでしょ、肘」

 夏。故障からもう一年が経っていた。

「やるに決まってんだろ。再戦だ」
「それでこそ君だ!」


 奴は歓声をあげると、そのまま電話を切ってしまった。
 ああ、君はそういう奴だ。



 翌朝、いつもより体を温めて肩を回してから、動きを確かめるようにキャッチボールをしていた。今現在は自分のことが嫌いじゃなかった。
 まともに投げられるようになる保証がないとわかったときは、毎朝死にたくなった。受験勉強に必死こいて逃避した。

「そうそう。始めはゆっくりね!」

 テリーからの返球こそ、力が入っている。お前こそ落ち着けって。

「ブランクの割に安定してるじゃーん。俺に隠れて走ってたな!」

 合格発表の後、トレーニングだけは再開した。力が衰えて、本当に投げられなくなったら、今度こそ終わりだと思った。まともに野球をする生活に戻る気はなかった。進んだ高校にある野球部は弱かった。勝つことだけ考えて野球をしてきた俺には、適応できる自信がなかった。

「あれ、フォーム変えた?」

 髪型変えた? くらいのノリだ。変わったのは体型。腰回りから下半身全体が大きくなったせいで、制服のズボンが身長のわりに太い。女子に言わせれば、スタイルが惜しいそうだ。
 受験勉強に逃げ込んで、その次はトレーニングに逃げた。何から逃げていたのかわからない。

「わかるか」
「何年受けてると、思ってんの!」

 肩や肘に負担のかからないフォームを模索した。横回転を使った方がいいとわかった。上体を大きくひねるため、軸足を鍛える必要があった。運動エネルギーを発生させるため、軸足は強く蹴らなければならなかった。

「晶にイライラしたのってさ」

 テリーは黙って受ける。ゆったりとした返球。

「全国大会まで行けなかった引け目かもな」
「結局、あれから会えなかったからね」

 地方大会の決勝戦。
 試合は終盤。一点差で勝ち越していた。肘に違和感はあった。控え投手は、言っちゃ悪いが俺より一段劣る。

「俺、やっぱりあの試合勝ちたかったんだわ」

 違和感がフォームに出ていたのかもしれない。監督に交代を薦められた。俺は頑なに拒否した。それから何球目かの投球途中、腕を振ろうと上半身を倒した瞬間激痛が襲った。

「しょうがないよ」
「そうは言うがな」

 試合は逆転負け。上の大会に行けば、アキラと対戦できていたかもしれなかった。いや、あいつのことだ。きっと勝ち上がっていた。会いにいけなかったのは俺の方だった。俺が約束を反故にした。

「でも、やれるんだな」
「伊織が追ってきた女の子だもんね」
「誤解を招くからやめれ」
「ほら、晶ちゃん来たよ」

 テリーはボールを持ったまま、フェンスの向こうを指差す。晶と目が合った。

「ハロー!」

 またそれか。晶は呆れたように頭を振って、こっちに歩いてきた。

「よ、よう」

 この晶が、ずっと追いかけてきたアキラか。

「えっと。来てみたのはいいけど、あたしどうすればいいの?」
「さあ?」
「晶ちゃん! 君も野球に興味があるんだろう!」
「なに? いつもキャッチボールしてるの?」
「あ、ああ、うん」

 うまく言えなかった。何を言いたかったのかもどっかの球場のスタンドに飛んで行った。

「お前、なんで言ってくれなかったんだよ。どの大会にもいねえしよ。地方大会の決勝まで行ってしまいましたよ、俺は」
「俺たちは!」

 すかさずテリーの抗議が入った。

「ああ、すまん。俺たちは」

 晶はすこし考えて、目を大きく開いた。

「あ、あのときの! 伊織と照井君?」
「そうあのときの! 君の内側をいやらしく攻めようとした俺!」
「ねえ伊織。セクハラされた気がするんだけど」

 晶の目が助けを求める。このリアクションは女子だ。なんで当時、こいつを何の疑いもなく男だと認識したのかわからない。

「ごめんね。なんか身長追い抜かれちゃってるし、わかんなかった」
(俺だってテリーに言われるまでわかりませんでしたよ)
「思い出してくれたならいいんだ」
「うん。思い出した」

 どう切り出したものか。俺はこいつと戦いたいだけなんだけどな。

「ま、いろいろあったけどさ! それはさておき野球しようぜ!」

 いつもテリーにかけられていた言葉が出ていた。俺はそんなこと言わない。もっとクールに持ちかける。でも言っちゃった。

「しないよ」
「えっ」

 晶は目を伏せて首を振った。長い髪が揺れる。

「ごめんね。辞めたの」

 なんだそれは。

「ほんとごめん。あたし行くから」

 晶は例の流した走り方で行ってしまった。妙に速いのがカンに障る。
 それよりも。

「なんだよ」
「あの、伊織――」
「なんだあれ。ほんとにあのアキラか」

 俺が昨日、バッティングセンターで会ったあの女は、間違いなく晶だった。その晶が、あの口で野球を辞めたと言った。そんなはずがない。そんな奴に、あの打撃はできない。

「残念だけど、確かに彼女がアキラだよ」
「なんだよ。ふざけんなよ――」
「ほら伊織、教室行くならクールダウンしないと」
「お、おう」

 釈然としない。苛立ちは一層ひどくなった。

そんなことより野球しようぜ!(3)

 放課後の教室でテリーが隣の席の晶と話している。我慢できずに話しかけた。

「なんだよ、朝のは」
「だから、言ったとおりだよ」

 すまなそうな口調に、諦めの混じった微笑。晶は美人だけど、気に入らなかった。

「フツーの女の子に戻りまーす、ってか」

 我ながら意地の悪い言い方だ。

「やめて。あたしはこれでいいと思ってる」

 晶の目がきつくなった。彼女が転校してきて、初めて向き合ったと感じる。

「言いたくないのか」
「ごめん。そっとしておいて」

 言いたくない理由って何だ。俺みたいに壊れたわけでもないだろう。晶は変わってなかった。俺が期待してきたとおりに成長していた。
 じゃあ、辞める理由って何だ。俺がぐちゃぐちゃ考える間に、晶は帰り支度をしていた。いつもつるんでいる女子が、晶に話しかけている。

「ねえ、晶ー。今日ユキの誕生日だよー」
「あ、そうだっけ。おめでとー!」

 少し驚いて目を開いてから、笑顔を作る。おめでとう、とは思っているだろう。楽しい気分になっているのも嘘じゃないだろう。なのに、何だ。この作った可愛らしさは。

「今からカラオケ! 晶も行くよね?」
「えっ、今日?」
「今日に決まってんじゃん」
「ごめんね。用事あるの。ユキちゃんには悪いけどみんなで行ってきて」
「えー、何用事って」

(それを聞き出したところで、お前に止められるわけじゃねえだろ)

「ほんとごめん! 明日お祝い持ってくるから!」

 晶は鞄をひっつかんで、足早に教室を出ていった。忙しい奴だ。俺から去るときも走っていた。

「晶、付き合い悪いよねー」

 晶を見送って、女子の一人がぼやく。

「たまにはいいじゃんねー」
「なんか晶って冷めてない? うちらとは違うって顔してるときあるし」
「そう?」
「そうだって。気取ってるってわけじゃないけど、愛想の良すぎない? 心開いてなくない? いつまでもお客さんっていうか」
「それは言い過ぎだってー。晶も忙しいんだよ」
「そうかもしれないけどさー、うちらの為に作る時間もないってわけ?」

 これ以上聞きたくなかった。

「お前に晶の何がわかるんだよ」

 彼女たちには聞こえていないだろうが、口にせずにいられなかった。俺だって勝負の外での晶を知らない。晶だって本当は女の子らしいのかもしれない。

(晶はおめでとうって言っただろ。それでいいだろ)

「さあ、帰ろうか伊織。ゴーホームイオリン。ウィズミー」
「うーん……」

 テリーは勝手に教室を出ようとしていた。俺がなんとなくついてくることを知っているからだ。

「晶ちゃん、ひどい言われようだね。まだケツのこと言ってる俺のほうが紳士的」
「気分悪いわ。あれで友達かよ」
「まあ、あれで成り立ってるなら友達なんだろうね」

 駅に着いた。いつもとは違うホームに歩いていく。

「こっちじゃねえだろ」
「こっちでいいのさ」

 テリーがそう言うなら、そうなんだろう。

「何かあるのか」
「何かってほどでもないけどね」

 電車は、晶が越してきたのだという方向へ向かう。こいつの目的が見えてきたようで、見えてこないまま電車に乗った。

「まさかお宅訪問とかじゃねえよな」
「しないしない。さすがに俺もそこまではしない」
「じゃあ、そこまでじゃないことならするんか」
「必要ならそうするかもね」

 テリーは窓の外を眺めて黙る。冷徹な目だった。
 連れて行かれたのは個人経営の喫茶店だった。

「俺、放課後ティータイムなんて趣味はねえぞ」
「俺だってないよ」

 店に入る様子はない。向かいのコンビニに引きずり込まれた。なんとなくテリーに会わせて雑誌を立ち読みする。

「そろそろかな……」

 お前は探偵か。

「ほら、来た」

 通学鞄を置いて、制服から着替えたのだろう。トートバッグを肩に提げた、私服の晶がやってきた。ややタイトなTシャツにショートパンツ。適当な格好なのに、様になっている。
 長い脚の形が良くて戸惑った。

「晶ちゃん、あそこでバイトしよる」
「しよるって言われてもな、俺は困るぞ」

 何しに連れてきたんだ。

「何か事情があるのかもしれない」

 しばらくして、制服に着替えた晶が店内に出てきた。

「野球辞めるほどの事情か」
「さあ? 挙動が怪しいから尾けてみただけだから、これ以上のことは知らん」
「お前当たり前みたいに言うけどやってることキモいな」

 さすがに俺も引く。

「人聞きの悪いこと言うなぁ。多少手段を選ばないだけだよ」
「それで、どうするんよ」
「どうもしないよ。帰る」

 野球辞めるほどの事情って何だ。晶ほどの女が、辞めるほどの事情って何だ。
 ひどく喉が乾いた気がした。適当な雑誌と水を買ってコンビニを後にした。町内放送が、良い子は家に帰れとエコーをかけて追い立てる。
 まだ明るい。

「俺な、バッセンで晶見てるんだわ」
「えー。じゃあ辞めてないじゃん」
「しかも通ってるらしい。スイングも見たけど劣化してなかった」
「じゃあさー、なんで辞めたとか言うわけ?」
「それがわかんねえから苛つくんだろうが」
「うち、女子ソフト部あるじゃん。そっちじゃだめなんかな」
「だめなんだろうな。スポーツ全般、本気でやる気ないだろ」
「なんであんなことするんだろ」
「なんでだろうな」

 晶ほどの素質があれば、インターハイだって国体だって、世界だっていける。晶は望めばどこにでも行ける。
 理解できなかった。

そんなことより野球しようぜ!(4)

 次の日の朝も、伊織と照井君はキャッチボールをしていた。転校初日に見かけたよりも、照井君が捕球したときの音が良い。伊織は調子を上げているらしい。照井君も捕球が上手い。伊織が良い球を投げたときは、良い音がする。

(いいな)

 彼はそれで、伊織が調子に乗るのをよく理解してるんだろう。

(打ちたいな)

 スピードはともかく、生きた球は良い。

(伊織、本気では投げないのかな。見たいな)

「ハロー! 晶ちゃあああん! やっぱり君も野球に興味があるんだねえええええ!」

 でかい奴がでかい声でフェンスの向こうから駆け寄ってくる。伊織は棒立ちで照井君の暴走を見送っている。止めてほしい。眺めるだけなんだから、そっとしておいてほしい。
 あたしは逃げた。逃げる必要なんてないけど、巻き込まれたらたまったもんじゃない。

(せっかく上手くやってるんだ。ボロは出せない)

 伊織があたしのことを覚えていてくれたのは嬉しかったけど、それとこれとは別だ。二度と人前で打席に立たないって決めた。懐かしさに負けたら、あたしの積み上げてきたものは無駄になる。
 教室に行ったら黒板に、鞄を置いて体育館に集合、と書いてあった。持ち物検査でもするんだろう。抜き打ちになってないけど、いいんだろうか。あたしは非行とは無縁だ。別にいい。タバコもドラッグもコンドームも持ってない。ポーチに入ってるのは色付きのリップクリームに日焼け止め、あぶらとり紙とかソックタッチとかそんなの。勉強に関係ないにしても、大体身だしなみ関係。あ、でもやっぱり、同性の教師でも生理用品見られるのは嫌だな。とにかく、見られて困るものは何一つ持ってない。
 体育館での朝礼の後、生活指導の教師にこっそり呼び止められた。

「放課後、ちょっと来なさい」
「えっ……えっ?」
「自分でわかってるでしょう?」

 反論は逆効果だと判断した。第一、どの持ち物に問題アリと思われたのか見当がつかない。視点が定まらない。ふらふらした視線の先に、伊織と照井君がいた。目が合ったような気がする。不思議そうな顔をされたような気がする。
 たすけて、とは言えなかった。



 放課後の生活指導室で、長机を挟んで教師と対面して座る。目の前の机にはライターが出されていた。何の問題があるのか、全然わからなかった。教師は妙に親身なふりをして、ニコチンの害がどうとか隠してもだめとか言っている。

(あれ、もしかしてあたし、煙草吸ってると思われてる?)

 的外れもいいとこだ。そんな男受けの悪いものに手を出すわけがない。何をどこから説明したらいいかわからなくて黙っていた。

「黙っていても、何も変わりませんよ」

 黙秘してるんじゃなくて、どう言ったらいいか考えてるだけだ。うんざりしていると乱暴にドアがノックされた。

「お、晶やっぱりここにいたのか」

 返事を待たずに、通学鞄を持った伊織が入ってきた。

「ちょっと、今話してるのが見てわからないの」

 あと少しで落ちるところだったのに、とでも言いたそうな口ぶりだ。

「ああ、そのライターのことですか」

 伊織が机の上を指さす。

「やだなあ。それなら俺のですよ」
「それは聞き捨てならな――」
「マメ潰すのに使うんすよ」
「は?」

 伊織は鞄を探って、安全ピンを出した。

「こう、水ぶくれになってるところを、あぶった針で刺すんです。皮が破れて赤身が出る前に潰した方が痛くないんで」
「そんなことは聞いてないです」
「いや、だから。この前、こいつをバッティングセンターに連れてったんですよ。そしたらはしゃぎすぎちゃって、マメ作ったからそれ貸して潰させたんです」

 再び、伊織はライターを指す。

「あの、返してくれます? 普通の百円ライターですけど、一応探してたんで。あと、疑うなら晶の手を見てください。持ってない煙草は探しても出てこないけど、晶の手が証拠ですから」

 いらいらした様子で一気に告げて、教師が何も言わないのを確認すると、

「ほら、晶行くぞ」

 ライターをポケットに入れ、あたしの手を取って部屋を出た。訳がわからないままに助かったらしかった。

「ねえ、もう離して」

 階段まで来て、やっと声を出せた。

「ああ、悪い」
「なんであんなことしたの」

(違う。そうじゃなくてお礼――)

「なんでって、お前何も悪いことしてねえだろ」

 手を振りほどいて向き直った。

「助けてくれなんて言ってない」
「じゃあお前、あのまま指導室でだんまり決め込むつもりだったのかよ」
「それは――」
「そもそも朝の時点で説明してれば呼び出されることもなかったろうが」

 人目のあるところで、それはしたくなかった。

「好き勝手言わないで!」

 踵を返そうとしたところで、床がなくなった。

「あぶない!」

 片足が完全に階段を踏み外していた。手すりをつかめていない。転落せずに済んだのは、伊織が抱きとめてくれたようだ。

「あ、ありがと」

 今度は自然に口にしていた。片手で手すりをつかんで、片腕をあたしの体に回している。その手が胸をつかんでいた。気付いた途端、顔が熱くなった。

「あ、あの、離して」
「大丈夫かよ」
「だ、大丈夫。大丈夫だから」

 階段に尻をつける。体の力が抜けた。首を回して見ると彼は不思議そうな顔をしていた。

「さ、触ってるから」
「は?」

 初めて認識したらしい。伊織は「すまん!」と大声で謝りながら飛び退き「う、うわあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」と、なんだかよくわからない声を上げて走っていってしまった。
 呆気にとられながら階段にへたりこんでいると、照井君が話しかけてきた。見られていたらしい。

「あーあ。忙しい奴ですな」
「き、気まずい……」

 今の現場を押さえられたことも、伊織のことも。

「怒らないんだ」
「伊織のことは悪く思ってないから」
「その割にはえらく噛みついてたね」

 何か言い返すと、そこからこじ開けてきそうだ。無言で睨んだ。

「口は割ってくれないわけね。情報は与えない。糸口は掴ませない。うん。頭いいね」

 彼はあたしの手を取って立たせる。何も言わず、目に力を込め続けた。

「――下手くそ」
「え?」

 非難してる風じゃない。馬鹿にしてる。

「何がよ」
「君はうまくやってるつもりだろうけど、作ってるのわかるよ」

 怒りとも焦りともつかない感情が全身を一瞬で満たす。かっとなったはずなのに、妙に寒かった。

「ああ、晶ちゃんはそこが逆鱗か」

 納得か、確信か。何だ。あたしの何を観察してる。

「普通の女の子はね、こういうとき怯えるか気持ち悪がる。そうでなきゃもっとわかりやすく怒る。こういうつつき方をされて、そんな静かで激しい怒り方をするのは普通じゃない」
「普通になろうとして、何が悪いっていうの」
「悪いことなんてないよぉ。晶ちゃん、ぜーんぜん悪くない」

 照井君は笑って顔の前で手を振った。そして、首を振るといきなり真顔になって

「たださ、それってクソつまんねえだろ」

 低い声ですごまれた。その程度であたしはひるまない。ああ、そこが普通じゃないって言うのか。あたしもまだまだってことか。

「そっとしておいて。あたしはこれで男子とも女子とも、うまくやってる。少なくとも今までよりは、ずっと楽なの」

 激昂しそうになるのを抑えながら、それだけやっと言えた。

「そうか」
「そうよ。だから――」
「俺はね、晶ちゃん」

 遮られた。

「俺は、自分でも捕手としては結構いい線いってると思ってる。その俺が、伊織は最高だって信じてる。伊織の球を受けるときが一番気分がいい。俺のリードで、伊織の一番いい球で三振取ったときなんか最高にしびれる。あいつは去年の故障から、やっと立ち直ろうとしてるんだ」

(故障?)

「偶然だけどね、この前の休みに伊織は打ってる君を見てる」

 だから、さっきあんなことを言ったのか。見たままを喋っただけなのか。

「この一年、伊織は半分死んだみたいだったけど――今、立ち直ろうとしてる。いや、それ以上に進化しようとしてる。俺はまだ、あいつと組んでいたいし、最高のその上を見てみたい」
「ねえ、故障って――」
「だからさ」

 いちいち途中で言葉をかぶせてくる。わざとやってるらしい。黙って聞けということか。

「かわいそうだけど、君を引きずり出すよ」

 立場が危うくなりそうなのに、「やめて」だなんて言おうとも思わなかった。

(やれるもんならやってみなさいよ)

 奥歯を噛んで聞きながら、心の中で挑発していた。

「……うん。言うことは言った。帰ろ。じゃあね~」

 照井君はあたしの横をすり抜けて、階段を降りていった。

そんなことより野球しようぜ!(5)

 混乱した勢いで用もないのに超特急で家に帰ると、荷物を玄関に放って着替えた。そのまますぐ出掛ける。

「伊織、慌ててどこ行くの」

 母親まで慌てて声をかけてくる。

「ちょっと走ってくる」

 俺が走るのはいつものことだ。

「そう。気を付けて」
「ん」

 玄関を飛び出した。適当に体を伸ばして、川沿いまで走る。止まっていると余計なことばかり考えそうだった。
 野球以外のことについて考えるのはあまり得意じゃない。思考に雑音が混じる。気を抜くとそれしか考えられなくなる。
 晶の顔が思い出せない。思い出したくない。でも思い出せないとモヤモヤする。
 つま先の地面を蹴る力が強くなる。しばらく走ると、遊歩道に出た。日が沈んでもう少し涼しくなると、ウォーキングする人や犬の散歩をする人が増える。
 西日が目に痛い。うつむいて走る。俺は黙々と腕を振って足を前に出し続ける。
 なぜ晶を助けたのか。朝の戸惑って怯えた顔が頭から離れなかった。晶にとっては当たり前でも、普通の女子が持ち歩きそうにないもの。その理由。考えたら、晶を黙って連れて行かれるのが嫌だった。

(お前らに晶の何がわかる)

 いつもより早く息が上がる。完全にペース配分を間違えた。でも止まれない。

(晶の考えてることはわからないけど)

 体育の授業は常に手抜きでやり過ごす晶。くだらなそうな話にも愛想よく笑って返す晶。その後、物足りなそうに目を伏せるのを、何人が知ってるだろう。

(晶のしてきたことは)

 転びそうになって、初めてスピードをゆるめた。もう隣町まで来ていた。河原から町に戻る階段を上がって、少し歩くと例のバッティングセンターがある。

(晶の続けてきたたった一つのことはよく知ってる)

 考える前に決めていた。歩きながらストレッチをして呼吸と心拍数を落ち着かせる。邪魔にならないよう、遊歩道の端に座りこんで脚の筋を伸ばした。決めたら、動くだけだった。



 俺は例のバッティングセンターに来ていた。親子連れが一組いる以外は、俺のほかに客はいなかった。
 平日の夕方。もう少しで日が沈む。

(おっさん、いないかもしれないな)

 ポケットに手を突っ込むと、くしゃくしゃの紙幣が指に触れた。いつもなんとなく持っていて、使わなかった千円札だった。
 一ゲーム三百円。メダルを買った。
 硬球の、一番速球が打てるところに入る。なんとなく一球目は見逃す。晶はこれを、ほとんど全部向こう側のネットの上部に叩きつける。あいつやっぱりすげえわ、と、構えながら思う。打撃ならテリ―の方が上手い。でも俺だって、当てるだけならできる。

(つまんなくはないけど、張り合いねえな)

 とはいえ、体を動かすと少しはすっきりする。ケージから出ると、さっき打っていた子供が熱い眼差しを俺に向けていた。

「お兄さんすごいね! 速いの全部当てれるんだ!」
「お、おう……」

 当てるだけなら、などと水を差すのはやめた。見たところ小学校四、五年生か。お兄さんと言われてうろたえたけど、納得した。

「俺ね! ソフトやってんの!」
「お、スポ少か。ポジションは?」
「ショート!」

 確かに機敏そうだった。

「じゃあ、中学上がったら野球部だな」
「うん。で、高校生になったら甲子園行く!」

 鼻の奥がつんとした。

「おう、じゃあがんばれよ」

 素直にそう言っていた。

「打ち方教えて!」

 教えるならテリーや晶の方がいいだろう。打つのは好きだけど、教えられるほど上手くも強くもない。

「あ、じゃなかった! 教えてください!」

 俺より適役がいる、なんて野暮なことは言えない。たまに頭が回ってるから、ボールから目を切るなとか、もっと下半身を鍛えてタメを作れるようになれとか言っておいた。ついていた母親が「すみません」と言いたそうに苦笑して頭を下げる。俺も会釈しておいた。
 スポーツドリンクを買って、帰ろうとしたら受付のおじさんがいるのに気付いた。挨拶をした。

「やあ、君か。今日は晶ちゃん来てないよ」
「――みたいですね。そんなによく来るんですか?」
「うん。週に三、四回は来るよね。時間はまちまちだけど」
「で、どれくらいいるんです?」
「そうだねえ。三ゲームはやっていくかな。長いと休憩挟んで一、二時間いることもあるかな。好きなんだろうねえ」

 頭の中で掛け算をする。一か月で二、三万円はかかっている。とても高校生の小遣いじゃ足りない。
 だからバイトか。晶のすることは理解できないようでいてシンプルだった。
 おじさんに礼を言って帰った。



 あれから晶はよそよそしい。目も合わせなくなった。俺は晶にとって脅威らしい。勝負したらどうとかいう話じゃなくて、今の晶のあり方を脅かすらしい。
 このままだと再戦できる見込みもないし、対戦した過去までなかったことにされそうだ。そう考えるとむしゃくしゃした。
 テリーは何を考えているのか、野球部員と親しげに話すことが増えた。深刻そうな部員の話を親身に聞いている風だった。なぜか感謝されているようだ。このまま晶の中で俺との勝負が消えたら、多分接点はなくなる。それは嫌だと思った。

(待て。逆だろ)

 晶との接点がなくなったら、再戦の可能性が消える。それは嫌だ。そっちが正しいはずだ。
でも俺は、逆の順番で考えた。
 教室内に視線を巡らせ、晶の姿を探す。目が合った。彼女は少し困ったような顔をして首を傾げる。すっと伸びた背筋の上に、小さい顔が乗っている。髪を編み込んでアップにしているせいで、白い首が丸出しだ。俺と目が合ったまま、薄い唇を何か言いたそうに動かした。
 頭が熱い。心臓を握って無理やり拍動させられるようだ。頬の皮膚がぴりぴりする。奥歯を噛んで俺は頭を抱えた。

(惚れてんじゃねえか)

 頭が痛いような気がした。

「ヘイ、イオリン! 頭の頭痛が痛そうなフリしてどうしたの!」

 テリーが一緒に帰ろうと寄ってくる。話は終わったらしい。

「フリじゃねえ。人を馬から落馬して落ちたみたいに言うなよ」
「ちょっとー。明日には元気になっててよ。勝負するんだから」
「えっ」
「まあ歩きながら話そうじゃないか。ゴーホームイオリン。ウィズミー」
「お前それ好きだな」

 鞄をつかんで立ち上がった。



 帰り道、上機嫌なテリーに問い質した。

「で、何だよ勝負って。まさか晶が素直に応じたわけじゃねえだろ」
「んー、まあそうなんだけどね」

 テリーは意地悪そうな笑顔になった。絶対ろくでもないことを考えている。

「要は晶ちゃんを打席に立たせればいいんですよ」
「簡単に言うなあ」
「天岩戸(あまのいわと)作戦ですよ」
「何それ」

 西日がまぶしい。俺がにらむような目になっているのは、そのせいだけじゃない。

「太陽神アマテラスちゃんは弟のスサノオ君に部屋でうんこ投げられました。あまりのショックにアマテラスちゃんは天岩戸にひきこもってしまいました。太陽が出てこないのでみんな困りました。そこで一計ですよ。踊り子のアメノウズメさんを呼んで、天岩戸の前で宴会をしました。アメノウズメさんは狂ったように激しく踊るので、脱げました」
「いや、脱げましたって」
「今でいうところのストリッパーやね」
「やね、って」
「で、アマテラスちゃんはなんでみんな楽しそうなのか気になるのよ。太陽神の自分がひきこもってるのにー、って」

 ハタ迷惑な話だ。それもこれも姉の部屋でうんこ投げたスサノオが悪い。他にもあぜ道壊したり用水路埋めたりひどいことしてるけど。でもやっぱりうんこが一番ひどい気がする。

「めんどくせー女だな」

 とはいえ、やっぱり姉も姉な気がする。太陽がなかったら世界規模で困る。

「大体神様ってファンキーだからね」
「それで?」
「なんでみんな喜んでるのか聞いたの。そしたら、あなたより立派な神様が現れたので、みんな喜んでるんです、って。で、気になってちょっと顔出したら、そこに鏡が差しだされるの」
「それはあなたです、ってか」
「まあそんなとこ。で、自分の眩しさでひるんだところを、力持ちの神様が引っ張り出して、天岩戸を閉じちゃったの。めでたしめでたし」
「あー、なんとなくお前の言いたいことわかってきちゃったなぁ」

 嫌な予感しかしない。

「伊織には野球部のみなさんと対戦してもらう。もちろん俺が受けるんだから、本気でリードもする。守備にはついてもらえるから、打たせて取ってもオッケーよ」
「オッケーよ、って言われてもなぁ」
「ちなみに『ぶつけろ』のサインもあります」

 と、拳を作って左胸を叩いた。

「お前割と畜生だな」
「意地悪じゃなきゃ務まらないからね!」

 実は春に一度、声をかけられていた。俺はその誘いを断っている。気後れした。

「お前の言うことは大体わかったよ」
「――つまり、協力者のみなさんは天岩戸伝説で言うところのストリッパーだね」
「失礼な喩えはやめろ」
「晶ちゃんが出てきたくなるような投球内容じゃないとね」
「ほんとにそれでいけるのか?」
「いけるね。あれはそういう性格」

 いつ挑発にのると確信したんだ。

「わかった。やる」

 どうせ俺に策はない。

「しかしよく協力してくれる気になったな。野球部のみなさん」
「俺って人望あるから」

 あえて何も言うまい。

そんなことより野球しようぜ!(6・完)

 時間が取れるのは朝しかないと言われ、早く来た。テリーと一緒にウォーミングアップをする。風が涼しい。晶の首筋を思い出した。
 一年ぶりにグラブとスパイクの入った鞄を持ちだした。復帰するつもりはないくせに手入れだけは欠かさなかった。クラブハウスの前には、既に野球部が集まっていた。野球部にしては少ない。何人か欠けたらまともに試合もできそうにない。三年生が引退して、新キャプテンになったという二年生が話しかけてきた。姿勢を正して挨拶をした。

「事情は照井や一年から聞いたよ。でも、俺らも本気でいく」
「はい」
「お願いします」と二人で一礼した。

 マウンドのプレートから踏み出す足の着地点に印をつける。投球練習はワインドアップでゆっくりさせてもらう。いつの間にか、周りはざわつき、それから静かになっていた。

「いいですよ。始めましょう」

 もう気まずいとか後ろめたいとかそんなことは言ってられない。乗った以上、やるしかない。そしてやるからには抑える。
 そうと決めてここに立った。



 内容は良かった。この打者で一巡する。今日はスリーアウトでも交代はない。短い休憩を挟んで挑み続けるだけだ。
 フェンスの向こうにはギャラリーができていた。晶の姿もある。

(いいとこ見せないとな)

 誰でもいいから、彼女を引っ張り出してくれ。テリーは三振を取るより打たせるようにしているけど、それでも球数が気がかりになってくる。最後の打者は外角低めの球でセカンドゴロに打ち取れた。

「まだ打ってない奴いるかー」

 さっきの二年が守備についている部員に声をかける。みんな一度は打席に立ったことは知った上でのことだ。

「誰か……! 誰かこいつを打てる奴は……!」

(先輩、芝居がオーバーです)

「この際誰でもいい! 君、打ちたそうにしてるから来て!」

 ギャラリーの最前列にいた晶の腕を取って、バッターボックスまで連れてきた。無理やりすぎるけど、もう何でもいい。

「えっ、あの、ちょっと! あたしは!」

 俺やテリーが相手じゃないので、強く抵抗できないらしい。あっけないと言えばあっけなかった。
 晶はよくわからないうちにバットを持たされ、打席に立たされてしまった。テリーはど真ん中の直球を要求してくる。思わず首を振った。

「大丈夫だって! どうせ手が出ねえよ!」

 テリーはわざと舐めたことを叫んだ。晶のスタンスに少し力が入ったように見えた。
 要求されたとおり、真ん中へ投げる。晶は途中でスイングをやめてしまった。
 ファール。

(なんだよ。絶好球だろうが)

 釈然としない。
 晶はその後もカットし続けた。何球も何球も。途中から、気のない構えから例の構えに戻ったけど、カットは続く。
 今何球目だ。なんだこれ。俺が望んだものって、こんなものだったのか。
 球数が気になっていることもあってイライラしてきた。

「やる気あんのかコラァ!」

 俺が切れる方が早かった。

「それはこっちの台詞だ!」

 晶が詰め寄ってくる。今日も髪をアップにしている。あごの先に汗がたまっていた。

「なに手加減してんのよ! 本気で来い! あたしが打ちたいのはあんなのじゃない!」

 図星だった。

「メットくらい被れ! ぶつけたらどうするんだ! 女だからって手ェ抜いてるわけじゃねえぞ!」

 しばらくにらみ合って、晶は編み込みを解いて髪をおろした。一部分、編んでいた髪にゆるくウェーブの癖がついている。
 ヘルメットをかぶった晶が打席に入り直す。やっと勝負ができる。テリーが上体を起こして大きく構える。
 あのときホームランにされたインハイへ、一番いい球を――



「う、うわああああああ伊織いいいいい!」

 テリーが涙声で雄たけびを上げながら飛びついてくる。プロテクターがぶつかって痛い。

「お、お前なあ、優勝したんじゃねえんだから」
「だって、だって俺ええええ」
「泣くなよ」

 俺もちょっと鼻がつんとした。空振りした晶は、バットとメットを置いてその場で立ちつくしていた。今までの普通の振りが台無しになったことなんかを考えているかもしれない。単純に、俺に負けたことを悔しがっているのかもしれない。

「君すごいな、才能あるよ」

 誰かが掛けた言葉に晶が悲鳴を上げた。

「それが何だって言うの!」

 自制心が弱っていたのかもしれない。俺につかみかかって訴えてきた。

「ねえ伊織、何考えてるの! あたし、こんなんだから好きになった人に嫌われた!」

 くだらないとは言えなかった。晶が俺の三年を知らないように、俺も晶の三年を知らない。

「お前、それで辞めたなんて――」

 晶は半分笑いながら泣いていた。普通の振りが台無しになったことへの悔いか。でも憑き物が落ちたようだ。混乱しているのかもしれない。

「女捨ててるって言われて、平気でいられるわけないよ! 才能だか何だか知らないけど、あたしの邪魔をするならそんなの要らない!」

 俺も晶の肩をつかむ。

「ゴチャゴチャぬかしてんじゃねえ! そんなことでお前の価値を捨てるな!」
「価値なんてどうでもいい! 選ばれなきゃ意味ないの! 好かれないと、受け入れられないと――」
「その為の『最大公約数』な振る舞いか? クソつまんねえ奴の為に、クソつまんねえ奴に成り下がるな!」

 何か言おうとして言えないらしく、晶は俺の肩に頭を預けた。意地と体面を放り出して泣く晶は、正直言って可愛かった。

「俺はお前を相手にできてよかったよ」

 思ったより細い肩が俺の腕の中にあった。ギャラリーの存在は完全に頭から抜け落ちていた。

「何度も辞めようとしたけど、本当に投げられなくなると考えたら怖かった。そのへんは一緒なんだろうよ。俺も、お前も」

 視界の端に野次馬が映ったような気がしたけど気のせいだろう。

「所詮俺たちが普通であろうとしたって、無理な話なんだ。お前だって、よくできた擬態でしかなかっただろうが。どこの普通の女子高生がバッセン通いの為にバイトするんだよ。諦めろよ。お前十分打撃バカだよ」

 「そのままでいてくれ」と言うと、晶が顔を上げた。
 濡れたまつ毛が束になっている。目のふちが赤い。

「打ちたきゃいつでも投げてやる。どこまで行けるかわからないけど、行けるとこまで行く。お前が好きだ。だからついてきてくれ」
「え」

 その瞬間、テリーと、クラスが同じ野球部員が俺を囲んだ。はしゃぎながら俺の頭や背中を叩く。

「痛い、痛いって!」
「さあ、晶ちゃん! 返事! 返事!」
「お前ッ! せっかく人がいい感じに元気づけようとしてるところを!」
「そんな悠長なことやってちゃダメダメ! 晶ちゃん! 返事! ナウ!」
「えっ? ああ、う、うん……」

 晶は顔を真っ赤にするとうなずき、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。いい返事をもらって、俺はもっと有頂天でいいはずだ。でも、有頂天になりきれないのはテリーのせいだ。いや、こいつのおかげなんだけど、こいつのせいだ。テリーは満面の笑みで小突いてくる。

「で? 二人は幸せなキスをするんですよね?」
「しません」
「キース! キース!」

 手拍子を入れるな。

「キース! キース!」

 乗ってきたのはたまにテリーとつるんでる部員だ。お前も乗ってんじゃねえ。

「しねえって! 見世物じゃねえぞ!」

 晶は「うわあああああ」とふにゃふにゃした声を上げて走って逃げてしまった。もっと甘い余韻みたいなのがあってもいいと思うんだけどな。テリーと、一緒に茶化してきた部員の頭をはたいて黙らせる。主将に頭を下げた。

「今更かもしれないけど、入部させてください」

 やっぱり勝負がしたかった。勝ちたいと思ったら、やっとくすぶったものに火がついた。

「勝てる! 勝てるんだ!」

 そんな声が聞こえる。歓迎はしてくれるらしい。

「何? 『勝てるんだ』って」

 テリーに聞く。

「あれ、言ってなかったっけ。この夏で三年生引退して、ピッチャー一人だけになるから大変だって」

 それでこの喜びようか。

「で、その引退した先輩、エースだったって」
「ほう。で、俺を引きいれようと?」
「まあね! 俺も一緒に入るし? 頑張って二人でレギュラー取ろうね!」

(取るよ。取るけどさ……)

「お前、俺をはめたな」
「なんのことだかねー」

 テリーは笑いながら俺を引っ張る。

「さあフレンズ達! 走ろう! クールダウンをして教室に戻ろう! で、放課後は野球をしよう! 野球っていうか、ベースボールをしよう!」

 俺は俺で、さっきの言動を思い出して

「うわああああああぁぁぁぁぁぁ」

 と、情けない声を上げながら走った。



 その日の夜、親子三人で夕食を取るけど言葉は少なかった。でも言っておかないと。

「あの、父さん、母さん」

 テーブルの向いの両親が顔を上げる。

「俺、野球部入る。心配かけてごめん。もう少し続けさせてほしい」

 それだけ言った。言ったら涙が出てきた。本当は春に言いたかったんだろう。
 父は眼鏡を取って目頭を押さえている。母は水をくんで、俺の手元に置いて背中をさすった。
 こんなのは恥ずかしい。親の前で泣くなんて勘弁してほしい。でも、今日だけだ。



 翌日。いつもどおりテリーとウォーミングアップをしてキャッチボールをしていた。

「晶ちゃん、今日は見ないね」

 確かに、フェンスの向こうに彼女の姿はなかった。前まで、この時間なら俺たちをあそこで眺めていた。

「まあ、昨日あんなことがあったんだし。気まずいんじゃないか」
「それは伊織の方じゃーん」

 そのまま話しながら、ボールは往復を続ける。
 クラブハウスから、バットを携えたショートカットの女子が歩いてきた。背の高さと体つきは見慣れていた。

「あ、晶、その髪――」
「切った」

 晶は照れくさそうに笑う。首をかしげると髪が頬で揺れた。はっきりした目鼻立ちに合っている。すごくいいと思った。

「変?」
「変じゃないけど――に、似合ってる。似合ってるんじゃない?」
「いいよいいよー。晶ちゃーん! すごくいいよー!」

 お前はエロカメラマンか。

「お前、お前――」

 自分でも何を言いたいのかわからない。
「無理して話さなくても」と彼女は唇をとがらせる。「先は長いんだからさ」
 そんなこと言われたって、俺は空白を埋めたいのだ。話したいことがいっぱいあったはずなのに、俺の意識は晶のいる「今ここ」に捕まってしまう。埋めるったって、何をどうすればいいかわからない。
 晶はしばらく俺の言葉を待っていたけど、いい加減じれてしまったようで

「そんなことより野球しようぜ!」

 と、俺の胸を叩いてバッターボックスへ走って行った。

ブルーハワイの呪い(お題「青」)

 卯月を夏祭りに誘ったのは、受験勉強の息抜きと高三の夏くらい「それっぽい」ことがしてみたかったからだった。
 冗談半分で「浴衣が見たい見たい」とごねたところ、本当に着てきてくれた。紺の生地の浴衣に金魚が泳いでいる。髪は長さが足りなかったようで、アップにはできなかったらしい。普段はつけられないような、大きな花の髪飾りがついていた。

 通りの両脇を埋める屋台の灯りと、遠くに聞こえる太鼓とスピーカーから流れる盆踊りのサウンドは相当「夏」してるし、何より隣を歩く卯月の髪にささっている飾りが視界の端でちらちら遊ぶのがゴキゲンだ。
 体に響くのは太鼓とスピーカーからの低音だろう。鼓動でなんかあるものか。今更緊張なんかしてないぞ。してないんだからな。

「結構ノリノリだな」

 何気なく卯月の髪飾りをつついた。

「気分だもんね。気分」

 あごをつーん、と上げて拗ねた視線を送ってくる。その様子は得意げなポーズをとる猫のようで、僕は気に入っている。

 僕も浴衣なり甚平なりそれなりの格好をすればよかったのかもしれないが、それでは浮かれすぎているようで、妙なプライドが邪魔してTシャツにジーンズという変わり映えのない服を選んだ。
 そんな自意識過剰でシャイボーイな僕がしっかり卯月の手を握れているのは、
「藤堂、あたし金魚すくいやりたーい」などと言いながら結局スルーしてみたり
「藤堂、わたあめ」と、わたあめの屋台に向かいながら二、三歩歩を進めたところで
「藤堂、くじ」と方向転換したり、そうかと思えば
「藤堂、りんご飴」といきなり立ち止まってすれ違った女の子の持っているのを指さしたりして、隙あらばあっちこっちフラフラしようとするのを捕まえておかないといけないからだった。

「頼むからもうちょっと大人しくしててくれよ」
「フリーダムなあたしが好きなくせに」
「卯月、限度って言葉知ってる?」
「失礼だな。あたしは賢いんだぞ」

 とはいえ、歩きラムネしながら片手に女の子というのは気分のいいものだった。

 一通り見て回ったところで、卯月が縁石につまづいた。
 その場では平気そうだったけど、しばらく歩いていると遅れたり顔がこわばったりするようになった。
 人通りの少ない脇道に手を引いた。すぐに座らせることはできないけど、立ち止まるだけでも少しは楽になるはずだ。

「足痛いんだろ」
「大したことないのに」

 首を傾げて困ったような顔をする。

「我慢するなって。見せろ」

 見辛い街灯の明かりを頼りに卯月の足に傷がないか確かめると、足の親指の爪に血が滲んでいて気分が悪くなった。

「これ剥げてるんじゃ――」
「剥げたらもっと痛いよ」
「剥げたことあるのかよ」

 想像してブルっときた。

「薬局は近くにないし、コンビニもちょっと歩くな……」
「これくらいなら帰ってから手当できるから平気だよ」
「歩くのに思い切り支障出てたよな」

 「ぐっ」と卯月が何か飲み込んだ。

「この程度で痛がってるようじゃ上には行けないんだぞ」

 負け惜しみか。何にも負けてないだろうに。

「帰宅部が何の上を目指すんだよ」
「弥生はインターハイに行ったけどね」

 と、卯月は唐突に弟の名前を出した。その弥生と僕とは友達だけど、今その名前を出されるとちょっと萎える。
 「友達のねーちゃん」と付き合うっていうのはこういうことなのかもしれない。

「あいつは空手部だろうが」

 肺の空気を全部吐き出して頭を振るとくらくらした。

「帰りが混雑する前にさっさと退散するぞ」
「いいの? まだ見たいんじゃないの?」
「ざっと見たからな。雰囲気は楽しんだからいい」
「そっか」

 やっと納得してくれたらしい。

「あっ。ねえ、藤堂」
「今度はなんだよ」

 お願いだからその足でうろつきたいなんて言わないでくれよ。

「あたしあれ食べてみたい」

 と、屋台裏の縁石に腰掛けてかき氷を食べる女子中学生コンビを指した。

「かき氷食ったことないの?」
「かき氷はある」
「食べてみたいって食べたことないみたいな」
「青いのは食べたことない」

 その子達が食べているのはブルーハワイのかき氷だった。

「じゃあ買ってきてやるから、動くんじゃないぞ。いい子にしてるんだぞ」
「また子ども扱いしてー。あたしの方が誕生日早いのに」

 生返事もせずに歩き出した。卯月とのお喋りはキリがない。

 屋台でおじさんに頼むとき、自分の分も注文するか迷ったけどさっきまでラムネを飲んでいたので卯月の分だけ買った。
 卯月のところに戻ると、彼女は街灯の柱にもたれて目を閉じていた。
「買ってきたぞ」と頬に氷の入ったプラカップを押し付けた。

「うお!?」
「もうちょっと可愛く驚けよ」

 なんだか力が抜けてしまって、でも地べたに座るのにも抵抗があってそのへんの塀にもたれかかった。
 卯月は礼をいって受け取ると、先がさじになったストローで青い氷を口に運んだ。
 暗くてわからないけど、きっと目はきらきらしてたんだろう。
 卯月が甘いものを食べるときはいつもそうだ。

「美味いか」
「うん。ありがとう」
「よかったな」
「でもこれ、何味なのかな」
「何だろうな」
「よくわかんないけど、夏って感じの味だね」
「……夏味?」
「夏味はラムネじゃない?」
「俺はそれに共感できる自分に戸惑うよ……」
「これが概念ってやつなんだね」

 変な感心の仕方で、少し笑ってしまった。
 卯月のかき氷がある程度減ったところで、帰ることにした。
 しゃがんで振り返る。

「さ、帰るぞ。それなら揺れてもこぼれないだろ」
「ええ……あたしまたおんぶされるの?」
「君が足を怪我するのがよくない。かといってその状態なのを知っていて歩かせるのも俺の良心が痛む」
「でもこの前迷惑かけたし悪いよ」
「お前なあ……」

 卯月はいつもこうだ。僕を振り回すくせに助けを求めてくれない。

「頼るのもサービスだと割り切ってみたらどうよ。俺は多少疲れるかもしれないけどモヤモヤした気分は残らずに済むんだぜ」
「藤堂のお節介」
「お節介な俺が好きなくせに」

 「着崩れしちゃうなぁ」と口の中で呟くと、卯月は氷のカップを片手にもったまま僕におぶさった。
 バスターミナルまで歩くくらいなら苦じゃない。
 カップに結露していた雫がTシャツの胸を濡らした。

 以前送り届けた卯月の家までの上り坂を思えば、この道は平地なのでつらくなかった。
 「お疲れ様でしたー」と、バスの待合所のベンチに卯月を下ろした。
 「お疲れ様でした」と卯月もおじぎをした。

 花火の上がる音がする。さっきの祭の会場からだった。
 夜空にぱっと開いて、ばらばらと余韻の音を残して消えていった。

「離れても見えるもんだな」
「だね。……暑いとうんざりするけど、やっぱり終わると思うとちょっと寂しいかもね」
「夏が?」

 「夏が」と、卯月はうなずく。

「お盆が終わったら甲子園が終わって、夏休みも終わって――」
「その先は言わないでくれ。今日は現実を忘れると決めたんだ」
「来年はあたし達、高校出てるから甲子園球児も年下になるんだよ」
「ああ……中学までは皆おっさんくさく見えてたのに、あっという間にプロ注目選手が同い年だもんな」
「何かすごいことがしてみたいな」
「すごいことかぁ」

 卯月は足をぷらぷらさせた。脱げかかった状態でつま先に引っかかった下駄が、飛んでいきそうで危なっかしい。

「そうだ。呪いをかけよう」

 思わず噴き出した。完璧な不意打ちだった。

「呪いって、君ね」
「日本人の肩こりは夏目漱石の呪いなんだ」
「また突拍子もないことを」
「夏目君が肩こりっていう言葉を使ったせいで、日本人は『あ、この痛みと張りは肩こりだわ』って自覚してしまったんだ。肩こりという概念を植え付けられたからよ。これが呪いじゃなくてなんだっていうんだ」
「なるほどね。で、どんな呪いをかけようって?」

 あんまり力説するので先を促した。

「こいつを夏の終わりの味にします」

 と、ほとんど溶けてぐずぐずになりかけているブルーハワイのかき氷を突き出した。

「どうやって?」

 卯月は僕と目を合わせると、無言で青い水を口に含み、僕の首をつかんで引き寄せた。
 何も考えられず、何もできずにそれを口で受ける。一瞬で口の中が甘酸っぱく、冷たくなった。

「こうやって」

 少し失敗したのか、唇の端から垂れた液体が喉を伝って落ちようとしていた。
 浴衣についたらしみになるとかそんな発想だったと思うけど、急いで拭くなり何なりしないといけないと考えて、咄嗟に卯月の首に口を付けていた。

「ねえ、藤堂。なに?」

 青い筋に沿って舐め上げる。卯月がくすぐったそうに声をあげる。
 しょっぱかった。そりゃそうだ。夏だもの。汗くらいかく。
 口を離すと、卯月の首に待合の蛍光灯の明かりが反射して、濡れたところが光っていた。ブルーハワイの溶けた水の代わりに僕の唾液でついた筋だった。

「何考えてんのよ」
「いや、浴衣まで垂れたらクリーニング高くつくかなとか」
「現実は忘れるんじゃなかったの?」
「ああ……確かに今はいろんなものがどこかに飛んでたな……」
「やった」

 勝ち誇った笑みを向けてきた。
 今、ブルーハワイのかき氷が夏の終わりの味としてインプットされたということは、僕らは一緒にそういう呪いにかかったってことだ。
 それは認識の支配でもある。僕の海馬の一部の支配でもある。
 卯月がそれを喜ぶってことは、彼女にも昏い欲があるということだ。
 それが無性に嬉しかったので、僕も昏い欲を表出させる。
 卯月の苦しむ顔が見たい。卯月に息を荒げさせたい。

「卯月、舌出して」

 卯月は不思議そうにしていたけど、言われるままに青く染まった舌を出す。
 最初は驚いて抵抗しようとしたみたいだけど、それも止んで、卯月は僕のTシャツの裾を握りしめている。
 つかんだ肩から不規則な痙攣が伝わる。

 卯月の呪ったとおり、彼女の青い舌は夏の終わりの味がした。


【後日談あります】→呪い合った僕らの秋の終わり

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プロフィール

ciza6sfeuc/白澤カンナ

Author:ciza6sfeuc/白澤カンナ
「人を楽しい気分にさせることは素晴らしいことなんよ」を座右の銘にがんばります。
twitterはじめました。更新お知らせ&ぼやき用です。本ブログの更新は不定期なので、良かったらフォローしてください。

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