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女「有効利用したったwwwww」【後編】






最初のカーブを曲がると、急に心細くなった。
入り口に止まったお義姉さんの車も、申し訳程度についていた街灯も見えない。
道は舗装されているが、生活のにおいはしなくなった。

(もうどこを見ても暗いばっかりだな)

背筋が寒くなる。
だけど、急いだところでこの先に帰る家はないし、母猫に会えるとも限らない。

(ここは体力を温存したほうがいいよな……)

下手に走らないほうがいいだろう。
時計もライトもない。
時間的にも距離的にも、どれくらい歩いたかわからない。
僕は少しでも気休めになるものが欲しくて、指で宙に円を描く練習をしながら歩いた。

足の裏が痛み始めたが、僕は歩き続ける。
足元にうっすら影のみえるところがあった。

月が出ていた。
近く、明るく見えた。
月の周りの星が少しかすんでいる。
それでも、星座がよくわかりそうな空だった。

(月でも影はできるんだな)

ナオミの部屋のあるオフィス街や通学路じゃ、こんな星空は見えない。
ちょっとした感動を覚えつつ、ここに志乃がいないことが寂しいと思った。

また、木で月が見えなくなる。
闇に慣れた視界が、月光で少しリセットされたらしい。
僕にまとわりつく湿気を含んだ闇が、いっそう重く不気味に思えた。

僕はさらに歩き続ける。
額に汗が浮いて、Tシャツが体に張り付いていた。

足の裏が痛くて、途中で何度か道に座り込み、靴を脱いでマッサージした。
何かにひきずり込まれそうな気がして、道ばたに座る気にはなれなかった。

近くを流れる川の音と、種類のわからない鳥の声がする。
ふと目を上げると、川の上流に来ているらしく岩の影が見えた。
それがちょうど、しゃがみこんだ人間の大きさに見えて、鳥肌が立った。

何年か前、田舎の山で薬物を使用してラリった不審者が捕まった記事を思い出してしまった。
地方欄に小さく載った事件で、場所も関係ない。

だけど、関係ないとわかっていながら一度思い出してしまうともうだめで、
某国の拉致犯とか潜伏する殺人犯とか死体を埋めに来た奴とか、そんなものが頭をちらつきはじめた。

僕の後ろで、がさ、と音がした。

「うわあああああああっ!」

出したことのない声をあげて、飛び上がって走った。

(何なんだよ! 何なんだよ!)

勾配の具合が違ったらしく、僕は何もないのに転んだ。

息が乱れる。
吸うのも吐くのも苦しくて、肺がつぶれそうだ。
体温は上がっているが、気温は下がっているのだろう。
気温差のせいか耳の下が痛かった。

目から流れるものを拭う。
疲労による汗か、恐怖による涙かわからなかった。

「痛っ……」

よろけて、何かを踏んだ。
ただの石だ。
僕は靴下のまま、走ったらしかった。

振り返っても、水気をたっぷり含んだ夜気と闇で、靴はどこにも見当たらなかった。
いくら今の僕が夜目が利くといっても、遠くまでは認識できない。
あそこから何秒全力疾走したか、自分でもわからなかった。

引き返すか、進むか。
どちらも恐ろしく、どちらも嫌だった。

舗装されているとはいえ、粗いアスファルトを踏む足の裏はごつごつと痛い。
足裏で地面の凹凸を感じるだけで、ふくらはぎ、すね、膝まで疲労が襲ってくる。

僕は大きくくしゃみをした。
寒いと思った。
昼はまだ暑いが、夜になればしっかり秋だ。
夜の、秋の山。
動いていなければ寒さで余計に気力がなくなりそうだ。

僕は膝に手をついて、何度か大きく呼吸をした。

(いい加減肚をくくれってことか)

ここで、僕は気づく。
今になって「肚をくくる」とか「覚悟を決める」とかそんな言葉が頭をよぎるのは、今の今までそう出来ていなかったってことだ。
子猫の為と割り切ったつもりが、全然割り切れていなかった。
志乃には、子猫がかわいそうだと、母親に会わせてやりたいと言っておきながら、何もせずに済むなら何もしないでいたかったと思い始めている。
七代の間、僕の血筋にくっついてきて何もなかったなら、今後も大丈夫なんじゃないかと思う。

今更、そう思う。
そう思いたい。
そう思いたいだけ。
希望でも楽観でもなくて、僕は逃げを打ちたがっている。

(そういえば、今何キロ歩いた? 何分、いや、何時間歩いた?)

お義姉さんは、いざとなったら自分を呼べと、引き返せと言っていた。
今回失敗したら、別の策を講じると。

(でも、これを一からやり直せるのか……?)

山道の入り口で、車から降りたときの気分を思い出す。
あの放り出されるような感覚に、もう一度耐えられるだろうか。
こんな疲労や恐怖、痛みや寒さが待っていると知って、またあのスタート地点に立てるだろうか。

(無理無理! ぜったい無理!)

僕は至極後ろ向きな理由で、前進することに決めた。
後退したい気持ちに後ろ向きな理由を掛けると、結局は進まざるをえないのだ。

「おお、マイナス同士の掛け算ってこういうことか」

遅ればせながら冷静ぶって、誰もいない空間に向かって軽口を叩いた。

靴を失ってから、僕は更に歩いた。
進んではいるが、ペースは落ちていた。

(ゴムの靴底ってエライな……)

いつもと同じように地面を蹴っていると、今までの疲労も相まってすぐに親指の付け根が痛くなった。
衝撃を吸収するクッションがないせいか、足首までが痛む。
やがて脚全体の疲労は漠然とした痛みに変わった。
冷や汗をかき、気分まで悪くなっていた。

(そろそろ休んだ方がいいかな……)

でも、このとっぷりとした闇の中でうずくまって止まるなんて気が進まない。
動いている方がこわいものから逃げられているような気がしていた。

ふと、足場がなくなった。

「あ」

と、声に出ていたかどうかわからない。
のどが鳴っただけだったかもしれない。

次の瞬間、がさがさパキパキと枝の折れる音や葉の潰れる音にまみれながら体が転がっていた。
この下は沢だろう。
だけど、どれくらい下にあるかわからない。

(高低差はどれくらいだ)

転げ落ちながら閃き、僕は夢中で叫びながら何か掴もうと手を振り回していた。
結局何かにつかまることはできず、傾斜の最後まで落ちたらしい。

全身が痛い。
痛いなら生きてるだろう。
指は動く。
脚も曲がる。
まぶたは開く。
拳を作ってみると、ちゃんと力が入った。

(あ、やっぱり生きてる……)

頬の内側を歯で切ったらしく、口内が血の味で満ちていた。

立とうと踏ん張ると、足元がひやりとした。
浅い水の中に足首まで浸かっている。

(川だ……)

お義姉さんの車の中から見えた民家には、井戸のある家がいくつかあった。

(じゃあ、ここの水は飲めるか)

おなか下るかもよー、と、頭の中の志乃が言う。
いっそ下れ、と、水を掬って口を付けた。

冷たい。
口の中の傷にしみる。そのままゆすいで吐き捨てた。
さっぱりした。
喉をうるおして、顔を洗った。
少し元気が出た。

元のルートに戻れる算段はあるか。
傾斜に手をついて見上げてみる。
僕の視界では、もとの道は見えなかった。

(この高さなら、無理して登らないほうがいいか……)

この川に沿って上流を目指そうとしたが、川べりだけあって足場が悪い。
石は大きいし、靴もない。
冷えはそのまま体力を奪っていく。
時計も地図も灯りもない。

眠いと思った。
空腹は気分が悪くて、あまり気にならない。
ただ眠い。

僕は多少見通しの良いところにある、ひときわ大きな岩に辿りつくと、その上で横になった。
目を閉じると、岩肌がいやなものを吸いとっていくようで楽な気がした。

(ねるなー、ねたらしぬぞー)

(でも、きもちいいな、ここ)

(いま、ねてるのかな、おきてるのかな)

(どーでもいいや……いまは……めをつぶって、すこしやすもう)

――――――――――

何かが顔をはたいている。
痛くない。が、勢いは感じる。
目が開かない。顔にヒットした瞬間に捕まえる。

(毛が生えてる……)

小さな獣の手だった。

(おお、肉球……)

このサイズは知っている。
とりあえず小熊に嬲られているわけじゃなさそうだ。
安堵とともに目を開けた。

「ニャーン」

小さな三毛猫が、僕の顔の横に行儀よく座り、顔を傾けながら僕の顔をはたいていた。
こいつに会うときは、いつだって夢の中で、赤い空と何もない海辺なのだ。

(夢を見てるってことは、とりあえず死んじゃいないな)

「あれ……」

空が赤くなかった。
さっきまで僕をさんざん恐怖に追い立ててきた、黒い空だ。
満天の星空だったが、今は曇っている。

「現実か」

「げんじつニャーン」

思いきり大きく開かれた小さな口には、小さな牙が生えそろっている。
ああ、あいつだ。と思った。

「ここどこー。おそらあかくないにょー」

「山だよ」

「やま?」

「お前が生まれてくるはずだったところだよ」

「さむいニャーン」

「俺だって寒いよ」

「ここどこー」

「お前の母ちゃんに会いに来たんだよ」

「母上?」

闇の中で広がっていた猫の瞳孔が、さらに大きくなる。

「お前の母ちゃんを、俺のじいちゃんのじいちゃんの……ずっと昔のじいちゃんがな、間違って殺しちまったんだよ。
 だから謝りに来たんだ。お前も返してやりたいし、俺も助かりたい」

「母上おこってる?」

「俺のことは怒ってるだろうけど……お前のことはずっと心配してるよ」

子猫は愛されていたに違いない。
だから、七代も良い子にしていられたのだろう。

「にいちゃん、なんでねてるにょー」

「俺、ボロボロだろ。疲れたんだよ。休ませてくれ」

「へたれー」

子猫のうしろで、ゆっくりとしっぽがしなるように揺れている。

「こんじょうなしー」

「どこで覚えたんだよ、そんな言葉」

「おそとでねえちゃんがいってたニャーン」

(志乃か……)

「それはわるいことばだから忘れなさい」

「ねえちゃん、にいちゃんのことすき。わるいことばじゃないにょ」

「それとこれとは別なの」

「べつニャーン」

「そう、別」

「にいちゃん行こー」

「疲れたんだよ。休ませてくれ」

「いやにょー。母上に会うっていったのにー。のにー」

そういえば、言葉がわかる、話が通じるとはいえこいつは赤ん坊だったか。

(それも生まれる前の……)

(幼児のしつこさは半端ないからな――)


「お前の母ちゃんってどんなんだろうな」

「おなかが大きいにょー。ぽんぽーん」

「そりゃ妊婦だからな」

柄とか大きさとかいった特徴がわかればいいと思ったが、こいつは母親と面する前に命が絶たれていた。
言葉の端々から、胎児だったこいつに突きつけられた現実のひどさが見えてくる。
こんなに可愛いのだ。
ちゃんと生まれてきていたら、母親からだけじゃなく、もっと多くの愛情を向けられたに違いない。

(その未来を断ったのが、僕の血か)

「よし、行こうか」

「行くにょー」

やることも、気持ちも決まっている。
水分で重くなった足を持ち上げ、僕は岩の上に立った。

岩の下は足場が悪い。
みっともないけど、そろそろと降りた。

(志乃、どうしてるかな)

僕だって、憎まれてるだけじゃない。
家族がいる。お義姉さんだっている。
母猫の怒りはもっともだが、僕は帰らなければならない。
子猫の歩きかたがどうにも危なっかしいので、抱いて移動することにした。
転がり落ちた斜面を登るには視界が悪い。
このまま川を遡上していくことにした。

「にいちゃん、ぼく歩けるのにー。のにー」

「いいんだよ。一緒に母ちゃんのとこ行くんだろ」

「行くにょー」

「じゃあ、いい子にしててくれよ」

「ぼくっていい子ちゃーん」

「そうそう。お前はいい子だよ」

もう心細くなかった。
やわらかな毛の生えた額を撫でると、目を細めてあごを上げた。
絶対に、無事に届けてやるんだと思った。

僕は子猫を抱えて、しばらく歩いた。
距離も時間も、既に感覚は狂っていた。
足が痛まないように、体が軋まないように歩くのが精一杯だった。
ときどき子猫に声をかける。
猫は腕の中でもぞもぞしたり、返事をしたり、たまに眠ったりしていた。

少し、開けたところに出たらしい。
月光だ。
目を上げると、自分の身長より少し高いところに橋がかかっていた。

(よかった、遭難は免れたな)

「ほら、先に上がってな」

子猫を橋の上に上げる。
僕も飛びあがって、橋にぶらさがる。
枝や太いつるなんかに足をかけて、よじ登った。
足を橋に乗せて、体を反転させて全身を橋に乗せた。

「うわっ!」

狭く、古い橋だった。
人が歩けるだけの幅があるだけだ。
もっと勢いをつけていたら、もう一回転してまた川に落ちていたかもしれない。

止まりそうになった息を整え、体を起こす。

「あれっ」

子猫がいなかった。
さっと視線を走らせ、月影に消えそうな小さな影を認めた。
走って追いつき、脇に手を差し入れて抱き上げた。

「こら、勝手に行っちゃだめだろ」

子猫は僕の手からぶら下がって長くなっている。

「母上、もうすぐにょー」

早く行かせろとばかりに、不満そうな表情が浮かんでいる。
しっぽが僕の体にぺしぺしと当たる。

「こっちでいいんだな」

「よんでるー」

伸びきったボディーの下にある尻を支えて、僕は再び子猫を懐に戻した。

(こんな丸々コロコロの体型でも、猫は猫だな……)

頂上が近いのだろう。
さっきより光の届くところを多く通っている気がする。

「お前の母ちゃんってどんなんだろうなー」

「きっとかっこいいにょー」

僕はもう、前を見て歩いていなかった。
落ちているものを踏む方が怖かった。

「どれくらい?」

「あれくらいにょー」

子猫は前方に体を乗り出した。
つられて前を見る。

白く光る、着物を着た女が立っていた。

足が止まった。
まさか人間の形で出てくるとは思わなかった。

「なんだよ……これじゃ……」

(これじゃまるで)

「幽霊みたいじゃないか、とでも言うのか」

金色に輝く瞳が僕をとらえる。
初めて聞くのに、その女の声だとわかった。

「お前は……ふん。あのときの。今更何しに来た」

僕は硬直していた。

「あ……」

考えるより、声が先に出ていた。

「あなたに、こいつを会わせに来ました」

「死ぬのが恐ろしゅうて命乞いに来たか」

女の鼻に皺が寄る。
上唇がめくれ、とがった糸切り歯が露出している。

(歯はお義姉さんと似てるな)

僕を蔑んでいるのがわかったが、無理やり身近な人を連想することで、なんとか取り乱さずにいられた。

「あの、そのことなんですけど」

「なんじゃ。祟られておるのだぞ。潔く死ねい」

「いや、その祟りのことなんですけど」

女の肩がぴくりと動く。

「助けてほしいのもあるんですけど、その前にお礼を言わないと」

「礼? ふざけたことを」

「俺、多分昨日あなたの子に命助けられたんで」

「にゃんだと」

女の頭部から、猫の耳が飛び出た。
動揺のせいか、人の形を保つのに隙ができたのだろう。

「俺、訳あって『呪い殺し』の手伝いをやってるんです」

「それで、昨日、ある呪いに襲われました」

「好きな女が、巻き添えになりかけたんです」

「危ない仕事だから、世話をしてくれてる人に盾のようなものの出し方は教わってました」

「だけど、短期間で会得できるものとは思ってません」

「それでも、あの瞬間、完璧な盾があいつを守ったんです」

「俺だけの力じゃ、とてもできなかった」

「こいつが俺に、力を貸してくれたんです」

子猫を女に向ける。

「はっ! 誰がお前を守るものか」

「こいつを通して、あなたが守ってくれたんです。ありがとう」

女の手が、獣のそれに戻っている。

「俺の魂は、こいつのと同化してて離すことができないそうです」

「ふざけたことをぬかすな」

気圧されそうになるが、ここで引いちゃだめだ。

「こいつはいい子です。皮肉だけど、あなたの言葉を全ていいものだと信じ込んでしまった」

子猫を地面に下ろしてやる。

「にいちゃん、母上怒ってるにょ」

「お前には怒ってないから大丈夫だよ。いっておいで」

子猫は振り向きながら、母の元へ歩を進める。
女は爪を納めて子猫を抱き上げた。

「ああ……私の赤ちゃん……」

子猫の額に頬を擦りつけ、女は目を閉じた。

「あなたの『七代祟ル』という言葉を、こいつは良い言葉だと信じてしまった」

子猫は女の胸を前足で押している。

「あなたが悪い言葉を使うはずがないと、自分が聞く言葉は良いものだと信頼していたんです」

女は着物の胸元をはだけ、子猫の口元に近付けてやった。
子猫はすごい勢いで吸いついている。

「だから、あのときこいつが守ってくれた」

女は、子猫を満足そうに見ていた。
僕なんか、始めからいなかったようだ。
なんだか切なくなった。

「母上、にいちゃんのこときらい?」

「あ……ああ……」

「ぼく、にいちゃんすき。あそんでくれる」

女は子猫を抱えて、うずくまってしまった。

「俺、生きていたいです。周りの人も、不幸にしたくない。

 ほんとはこいつの魂もあなたのところに返してやりたいけど……それはできない」

「私の、私の赤ちゃん――」

「俺、こいつと一緒に生きます。幸せにもなる。
 ちゃんと死ぬまで生きて、あなたのところに送り届ける」

女は泣き出してしまった。
猫が化けているとわかっていても、泣かれるとなんだか気まずい。

「先に逝って、待っててください」

「待たずとも……お前を殺せば、今片付く話じゃ」

濡れた瞳が、僕をにらみつける。
縦長の瞳孔が開ききっている。

「いいや、あなたは俺を殺さない。あなたがわが子を手に掛けるわけがない」

「この子はどうなる」

「俺の中に戻るでしょう。ほんとは今日、返してやりたかった。
 あなたたち親子が離れ離れになったのは、ご先祖様の――俺の血の責任だ。
 本当に、ごめんなさい」

僕は、深く長く頭を下げた。

「もう、よい」

下げた頭の視界に、女の履き物の鼻緒が入る。
顔を上げて、体を伸ばした。
女は泣きはらしているが、その顔に恨みがましさはなかった。

「いいんですか」

「気の変わらぬうちに行け」

女の背後から、光の道が空に向かって伸びていく。

「母上、いっちゃいやにょー」

女は振り切るように、子猫を僕の胸に押しつけた。

「元気でね」

子猫は僕の腕の中でもがく。
二度目のお別れだとわかっているのだ。

「あんなことを言ったばかりに、お前を長い間現世に縛りつけてしまった。母さんをゆるして」

「母上! 母上! いかないで!」

子猫が泣き叫ぶが、僕はそれを離してはいけないと、本能で悟っている。
僕も耐えきれず、叫んでいた。

「だめなんだよ! お前はまだ、あっちにいけないんだよ! わかってくれよ!」

「大丈夫。今度は、お前もこっちに来れるからね。幸せになりなさい」

女は背を向けて、歩き始めた。

「うにゃあ」と子猫は悲痛な声を上げた。

「ああああああああああああああああ!」

彼女の消える様から、目を逸らしてはいけない。
僕は袖で涙をぬぐいながら、彼女を見送る。

「男だろ! お前の母ちゃんはもう苦しまなくていいんだ! 何も恨まなくていいんだよ! 辛くても見送ってやれよ!」

もう、自分に言っているのか子猫に言っているのかわからなかった。
女が振り向く。

「もうすぐ夜が開ける。お前をふもとに下ろしてやろう」

礼を言いたかったが、嗚咽で言葉にならなかった。
僕の体も光に包まれる。
お互いの姿が、見えなくなっていく。
意識が遠のいていく。

「娘を、頼む」

(娘!?)

最後の最後に衝撃の事実を知らされながら、僕は気を失った。


―――――夜明け前―――――

気がつくと、僕は倒れていた。
お義姉さんに下ろされた、スタート地点だ。

(月がまだよく見えるな……)

時計や携帯電話といった道具は、山に入るときに全て没収された。
僕が最後の頼みにできたのは右手の指輪だけだ。

(今、何時だろ)

子猫を話し相手にしたかったが、姿が見あたらなかった。
いじけて引っ込んでいるのかもしれない。

体の節々が痛んで動けなかった。
土地勘もないし、このまま歩いて帰れるはずもない。
潔く地面に転がったまま、お義姉さんの迎えを待った。

迎えはすぐに来た。

聞き覚えのあるエンジン音が近づいてきた。
お義姉さんは僕の頭の数十センチ横に車をつけると、転がるように下りてきた。

「春海君……!」

のどに詰まった声だった。
お義姉さんは僕を起こすと、ほんの少しの間だけ、ぎゅっと抱き締めてくれた。
温かくも冷たくもなく、やわらかな常温のマネキンのようだったけど、僕は十分嬉しかった。

「お義姉さん、痛いですって」

「あ、ああ……ごめんなさい。もう、心配したんだから」

お義姉さんは目元を拭って、一度鼻をすすった。

「帰るわよ。妹が待ってる」

僕は搬入されるようにして、車に乗り込んだ。

車の中で、山であったことを話した。
志乃にも同じことを話すだろうけど、一旦整理しておきたかった。
でも、やっぱり猫の親子が離れなければならなかったことを思い出して、僕は泣いた。

「すみません……やっぱり俺、まだ混乱してます」

自分が(おそらく)許された安堵感と、別れに立ち会った悲しさで頭の中がぐちゃぐちゃだ。
さっきから涙が止まらず、情けないことに泣きすぎて頭が痛くなっていた。

「泣くなとは言わないけど、ほどほどにしとかないと耳を傷めるわよ」

お義姉さんはダッシュボードを開けて、僕に箱ティッシュを持たせた。

「……なんか、間抜けっすね。この図」

「帰ったらすぐお風呂に浸かりなさい。その汚れようじゃ部屋にあげられないわ」

「うん……そうします」

旅館の外観が見えてきた。

志乃に会える。
そう思うと、なぜか感極まって僕はまた嗚咽した。
お義姉さんは呆れるだけだった。


―――――浴場―――――

桶に湯をためて何度かかぶり、泥を落とした。
あちこち擦り剥いたり切ったりしていたらしく、ひりひりした。
それでも湯船の誘惑には勝てず、僕は体を湯に沈めた。

「ぬおお……いてえええ……」

誰もいないのをいいことに、存分にうめく。
潜ったり泳いだりして一時の貸し切りを楽しんだ。

(いいないいなー。広い風呂っていいなー)

だらりと仰向けに浮かんで、まだ暗い天のてっぺんを眺めていた。

戸がカラカラと音を立てて開いた。

(早起きな客もいるんだな)

せっかくの温泉だ。気持ちはわかる。
僕は広い浴槽の隅っこに座り、へりにもたれかかった。

後ろで人が動いている。
湯を浴びる音。
ぺたぺたと濡れた足音がする。
振り向いて見るのも失礼だと思ったので、知らん振りを続行することにした。

「とう!」

聞き覚えのある声と共に、僕のすぐ横で水しぶきが上がった。

「志乃!?」

「ふふーん。来ちゃったー。来ましたぞー」

志乃はタオルで体の前面を隠したまま湯の中で体操座りをして、僕に体を寄せた。

「おおおおまえなああああああ」

「混浴ですしー問題ないおすし」

「テンションおかしいぞ」

「ウォンチュ!」

と、親指を立てて肩をぶつけてくる。

「また懐かしいものを……」

(さっきまでの感傷はなんだったんだろうな)

志乃は「ふふんふーん」と謎の鼻歌をうたいながら僕の肩に頭を乗せる。
濡れた髪が冷たかった。

一通りはしゃいだのか、気が済んだのかもしれない。
志乃は僕の肩に頬擦りして、長く息を吐いた。

「……大体はおねーさんから聞いた」

「そうか」

「ニャーンのことはかわいそうだけど、これで前に進めるんだよね」

「たぶんな」

「長かっただろうなー」

「うん。だろうな」

「心配したんだぞ」

「知ってる」

油断したのか、タオルが体から離れている。

「……おっぱい出てるぞ」

「知って――うわああぁ」

志乃は慌てて、腕で体を隠すと、僕の後ろに回り込んでしまった。

「狭い」

「それは壁と俺との間に君が入り込んだからです」

「そうですか」

「そうです」

(あー、平常運転だ)

僕は背中で柔らかいものが潰れる感触に興奮しながら、安心感を覚えた。

「シノサン、オッパイアタッテマス」

「アテテンノヨ」

手を伸ばして、湯船に浮かんだタオルを取って志乃に渡してやる。

「かたじけない」

「うんうん」

志乃は僕と浴槽の間に挟まったままだ。

「あれ、出てこないんだ」

志乃は「ふぅん」と鼻から息を抜いて、僕におぶさるように腕を回した。

「春海、けがしてる」

「転んだりしたからなー」

斜面を滑落したり川に落ちたりしたとは言わないでおこう。
体にできた無数の小さく薄い傷に、再び湯がしみる気がした。
志乃が僕の肩に口をつけて傷をなめた。

「もう血は止まってるからおいしくないと思うよ」

「うーん……」

志乃は何か考えながら、僕の体を撫でていた。

「そういうんじゃないんだよなー」

「どんなんだよ」

「お腹すいてないもん」

「ほう」

「ましてやエロいことがしたいわけでもないぞ」

「残念だ」

「……心配したんだぞ」

「知ってる。それ二度目だぞ」

「知ってる。ニャーンは? どうなったの?」

「知らん。お母さんは成仏できたっぽいんだけど、いじけてるのか全然出てこない」

「そっか」

「あいつな、メスだった」

「えー! って見たことないけど」

「あいつと話すときはいつも『ぼく』って言ってたからなー。俺の中にいたから学習したんだろうな」

「ニャーン……どうなるのかな」

「俺が引き離しといて言うのもなんだけどさ、なんとか乗り越えてほしいと思う」

「幸せになってほしいよね」

「俺の中でだけどなー」

「幸せってなんだろね」

志乃が僕に覆いかぶさったまま、僕の肩に頬をつける。
冷たかった。

「なんだろうな」

今の僕には、触れる柔らかさが幸せの感触だった。

「春海はもう大丈夫?」

「うん、まあ」

「あんまり大丈夫そうに見えない」

「気のせい」

「だって泣いたでしょ」

「……」

「立ち直るの、時間かかりそうだよ」

「仕方ないことだとは思う」

「うん……。私、いいこと言えないと思うけど吐き出してほしい。
 何言っていいかわからなかったら、甘えてほしい」

志乃が体を伸ばして、僕の頭を抱いて後頭部を胸にうずめた。

(うーん……乳枕……)

「女が柔らかいようにできてるのは、たぶんそのためなんだ」

「いいように作ってくれたわけね。インテリジェントデザイン」

体を反転させて、志乃を抱いた。
確かに肌や肉が柔らかく、体の線が出たり引っ込んだりしてるのは僕のためのように思えた。
そうするのが当たり前みたいに唇を吸った。
半日ぶりだったけど、えらく長い間離れていた気がした。
やっと、ちゃんと会えた気がした。

「なにそれぇ」

と、志乃が目をとろんとさせて聞く。

「後でなー」

湯を掬って、志乃の肩にかけてやると、半開きの目で微笑んだ。

「ぬくいー」

両手で顔をはさんで、唇から覗いた歯に舌先で触れると、つるりとしていた。
志乃はくすぐったがる。

「やだ。ちゃんとして」

志乃が僕の舌を吸う。
気持ちはまだまだ凹んでいたが、下半身はすっかり元気になっていた。

「そろそろ出ないとのぼせるよう」

と、僕の腕の中で体をよじる。

「いや、今はちょっと」

「隠したってばれてるぞ」

「うわあああ握るなあああああ」

彼女は、腰が引ける僕を捕まえて腕を引く。

「ほらー、座って座って」

僕を浴槽の縁に座らせる。目が笑っている。
大体やろうとしていることはわかった。

「朝飯にはまだ早いだろ」

山の向こうの空が白んでいる。朝が近い。

「いいからいいからー」

「ここじゃまずいって――ぅああ」

志乃は何の遠慮もなく、僕の性器を一気に根元まで飲み込んだ。
直後、吐き出してせき込んだ。

「もー、がっつくから」

頭に触れると、髪は随分冷えていた。

「がっついてなどいない」

口元を押さえながら僕を睨む。
じれったそうに先っぽを指でこねている。

「あれ、もういいの?」

「見ーるーなー」

「はいはい」

いい加減に返事をして、目を閉じて上を向いた。

「よいしょ」

と、志乃は僕の膝の間に体を割り込ませた。
滑らかな肌が内腿に触れる。
すると、そこが口内の粘膜や手とは違うものに包まれた。

(何を……)

薄目を開けて見ると、僕のが志乃のおっぱいに埋もれていた。
声を出してはいけないような気がして、唾と一緒に飲み込んだ。
両手で寄せた胸の間から先が覗いているのはいい眺めだった。
正直、口でしてもらうほどじゃないけどこれはこれでいいものだ。

「うーん……むずかしい……」

志乃はぼやきながら、揉み込んだり上下に動かしてみたりしている。

「――あ」

「あ」

目が合った。

「やだもう! 見るなって言ったのにー!」

志乃が体を離して、腕で乳を隠す。

「わ、悪かったよ……」

「もう! ファック。まじファック」

「すまん……」

うらめしげに棒を握り、やや強すぎる力加減でしごかれる。

「いや、ほんとゴメン」

「せっかく人がヴァンプ化したことにより巨乳化したおっぱいを有効利用してやろうと思ったのに」

「あ、ハイ。ほんと、いいものをお持ちで」

訳のわからない弁解をしつつ、萎えることはなかった。

「――で、出したいの? 出したくないの?」

「う。……だ、出したい」

「どーやって?」

「そこまで言わせるんか」

「言わせるとも。わかれ。恥ずかしい現場を押さえられた乙女心」

「あー、じゃあ、さっきみたいな……」

「さっき?」

「あの、おっぱいで……」

「しょおーがないなあー」

満面の笑みである。
機嫌を直してくれたらしい。

「でもうまくいかないんだ……」

「俺が思うにぬめりが足りない」

志乃は少し考えて

「じゃあ、こっち来て」

と、洗い場に僕を引っ張っていった。

志乃は膝立ちになり、ボディソープを手に取ると自分の胸に塗りたくった。

「ん。好きにするがいい」

と、泡だらけになった胸を寄せて言い放った。

「待って。石鹸は危険だからリンスにして」

僕は一瞬だけ冷静になり、志乃にシャワーをかけて泡を流す。

「え、そうなの?」

「そうなの。粘膜しんじゃう」

「なにそれこわい」

志乃は僕の要望を聞き入れ、リンスのボトルに手を伸ばした。

「さ、好きにするがいい」

「え、俺が動くの」

「がんばってー」

「イヤン、恥ずかしい」

「私だって同じくらい恥ずかしいよ」

「うーん、しょうがないなぁ……」

志乃の胸の間に差入れる。

「ぐっ――」

「どう? マシになった?」

僕は答える余裕もなくうなずいて、腰を振った。
志乃は満足そうに眺めていた。
どれくらいそうしたかわからない。
気持ちよさで羞恥心をどっかに放り投げたところで、波が来た。

「志乃っ、出る――」

「ん。いいよ。そのまま出して」

いつも僕が射精するときは、志乃は喋らない。
口が塞がっているからだ。

(毎回、こう思ってくれてるのかな)

僕は満足感を覚えつつ、そのまま出した。

志乃の顔や首に散ったものが、重たく垂れてデコルテを汚していく。

「へへー。いっぱい出たね」

唇についた精液を舐めながら、嬉しそうに言う。
僕は呼吸をするのに精いっぱいだった。
ただ、その様子をしっかり目に焼き付けて後のおかずにする意志はしっかりしていた。

「どう? まだ悲しい?」

「頭じゃ悲しいけど、今は疲れて……それどころじゃないよ……」

子猫のこと、母猫のこと。
僕のこれからのこと。
気がかりだけど、身体感覚の方が強かった。
快感や疲労の方が、今この瞬間の僕にはリアルだった。

「そっか。ちょっとでも気が楽になったら、私は嬉しい」

「ああ。ありがとな」

志乃はもったいなさそうにシャワーで流すと、

「ふふーん。有効利用したったwwwww」

と勝利宣言をして脱衣所に消えていった。




―――――月曜・朝・学校―――――

軋む体をどうにか動かして、僕は無理やり登校していた。
足の裏なんか、冷静になって見返してみると小さい擦り傷だらけで歩くのが億劫だった。
それでもなんとか遅刻せず、席についたときは達成感すら覚えた。

「あー、俺がんばった。超がんばった。帰っていい?」

「だめー」

「何やりきった感出してんの」と志乃は笑う。

僕の指には、お義姉さんから返された指輪がはまっている。

「あの二人、大丈夫かな」

志乃が上木さんの席のあたりを見やって言う。

「まだ来てないな」

廊下側の後ろの席。まだ空いていた。
少し離れたところに座る神田さんは、いつもどおり本を読んでいた。
あんなことがあっても、傷ついても悲しんでもいないようだった。

少し経って、上木さんが教室に入ってきた。
心なしか挙動が怪しい。
あの様子だと、何があったか完全に忘れてはいないんだろう。
神田さんがすっと立ち上がり、上木さんに近づいていく。

「春海、どうする?」

志乃が低く囁く。

「一応警戒しとこう」

二人で席を立って、廊下に出る。
ドア越しに彼女たちの様子を窺う。

「上木」

神田さんが、上木さんの席の前に立つ。
声が硬い。
上木さんは顔を伏せている。

「神田、私――」

「言わなくていい」

神田さんは手に持っていた本に挟んでいた紙を開いて、机に置いた。
志乃は身を固くしている。

「でも私」

「私も、思うことがないわけじゃない。私の足を引っ張るのは許せない」

「それは悪いと思ったよ! でも――」

「だから、言わなくていい。あんたは私の友達。
 昔、転校してきて、なじめなくて浮いてる私と、真っ先に友達になってくれたのはあんた。感謝してる」

上木さんが顔を上げた。ここからじゃ表情は見えない。

「だから連れていく。入部して」

神田さんは、胸ポケットからボールペンを出して机に置く。

「私は何もあきらめない。あんたのことも見捨てない」

「……うっ」

上木さんは泣き出していたけど、多分悪いことじゃなかった。
周りが野次馬根性丸出しな視線を投げかけても、神田さんは背筋を伸ばしていたし、上木さんも納得しているようだった。
志乃と二人で、荒く息を吐いた。

「決着、ついたんだろうね」

「そうだな。……女の友情はよくわからん」

「私にもわからん」

一気に安堵したせいか、気分がよくなっていた。

「いやぁ、よかった。気分がいいから、どろりとした白濁液ことのむヨーグルトをおごってあげよう」

ポケットから100円硬貨を出す。ぬるい。

「そこで下ネタをからめてくるのやめてください!><;」

「なんだね、その『こうですか? わかりません!』みたいな顔は」

「清純アピールです」

彼女の足は、既に自販機に向いている。

「そうですか」

「まあいいや。ありがと。買ってくるけど、あんたも何か要る?」

「コーヒー牛乳!」

「おけー」

志乃はスリッパでぺたぺたと走っていく。
一歩ごとに跳ねる髪とスカートの裾を眺めながら、若いっていいなあ、などと思う。

(は! 僕も若かった!)

いろいろあるけど、まあそこはそれ、それなりに何とかなっていくんだろう。



――だってぼく、生きてるしニャーン――



(うんうん。生きてるってそういうことだよな)

(……あれ、今、僕の思考にノイズが……)

細かいことはいいとして、僕は足をひきずりながら席に戻った。

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ジャンル : 小説・文学

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